娯楽は命を支える
台風チャーミーの経験談が続く。今回、沖縄滞在中に台風にぶち当り、停電を経験した。私たちの生活がどれだけ電気に支えられていると思ったかということは、「台風チャーミーに備えてください」に書いた。テレビやスマホなどの娯楽がない停電の中で聞いたラジオが忘れられない。
最初は、台風情報が知りたくて、ラジオをつけた。今どのあたりを進行しているのか、停電の復旧はいつ頃なのか、水道は大丈夫なのか・・・そんな情報を求めていた。
停電で当然ながらテレビはつかない。外で放送は何かしらされていたのかもしれないが、激しい風の音や何かがガチャガチャと飛ばされる音でまったく聞こえない。
スマホの電池残量を気にしつつ情報取得を試みたが、電波がかなり弱まっていて、ツイッターにもアクセスしにくい。電力会社のホームページはアクセスが集中していて、開けない。
だから、ラジオを頼った。
そう、最初は情報を求めて。
しかし、沖縄のラジオではあまり災害情報を放送しなかった。
「台風で何もできないので、来週に迫ったパーティの準備してます♪」とかいう投稿を読んだり、カーペンターズかなんかが流れてきたり。「おいおい、呑気だな〜早く台風情報流してくれよ」と思って聞いていたんだけれど、時間が経つにつれて、だんだんと停電の不安やハラハラ感が消えている。そのうち、ラジオのMCと一緒に笑い出している自分に気づいた。
これは、私にとって非常に興味深い出来事だった。
私はライターという仕事をしている。この仕事は、「娯楽」を生む仕事だと思っている。いわば、「いい意味でも悪い意味でも人の命には関与しない仕事だ」と私は思っていた。
しかし、だ。
停電の心細い中、私は明らかに娯楽に救われていた。
水や食料などのように、なければ死ぬものではない。しかし、「なければいけないものだけ」の生活だけで、人は本当に”生きるという感覚”を持てるのだろうか? 娯楽があってこそ、人間として「生きている」と思えるのではないだろうか? そう思った。
ほんの1日の停電だったけれど、「もしかしたら私の仕事は人を人らしく生かすための仕事なのかもしれない」、そんなことを思った。
本がないからといって、人の命が尽きるわけではない。お腹が減っているのを満たすわけでもないし、怪我を治すわけでもない。
でも、「あぁ、なんかこんな状態だけれど、楽しいこともあるんだね」と思えるような小さな小さな命の糧を紡ぎだすことはできる。それって、なかなかすごい仕事だ。また、明日から物書きの仕事に向き合っていけそうな気がする。
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