日本における真の差別とは?:女性差別よりも深刻な中高年男性差別の実態

近年、日本におけるジェンダー問題、特に女性差別に対する関心が高まっている。確かに、女性の社会進出という観点から見れば、日本は欧米諸国に比べて遅れを取っていることは否めない。しかし、私は、日本における真に深刻な問題は、女性差別というよりも、むしろ中高年男性に対する差別であると考えている。本稿では、この主張の根拠を詳細に述べ、日本社会に潜む中高年男性差別の実態を明らかにしたい。

まず、女性差別について考えてみよう。確かに、日本では女性の社会進出を阻む様々な障壁が存在する。例えば、管理職に占める女性の割合は諸外国と比べて低いし、男女間の賃金格差も依然として大きい。しかし、これらの問題は、女性が社会進出を望む場合に直面する障壁であり、女性の社会進出を積極的に支援することで解決できる問題である。

一方、日本には女性が持つ既得権益も存在する。例えば、女性専用車両やレディースデーなどのサービスは、女性のみが享受できる特権である。また、社会通念として、女性は弱者であり、保護されるべき存在であるという考え方が根強く残っている。これらの既得権益は、女性が社会進出を望む場合には放棄しなければならない。その代わりに、男性と同じ土俵に立ち、仕事上の意味において対等な競争をすることになる。私は、このような意味での男女平等という考え方は理解できるし、支持する。しかし、そこにはトレードオフが存在し、その意味では、現状は既に公平であるとも言えるのだ。

仮に、女性側に既得権益が全くなく、ただ抑圧されているだけであれば、それは非常に大きな問題であり、早急な解決が求められる。しかし、実際には、女性には女性なりの既得権益があり、男性にはない女性特有の権利も存在する。例えば、女性専用車両やレディースデー、母子家庭への優遇措置、女性向けの求人広告など、女性のみが享受できる特権は数多く存在する。これらの特権は、女性が社会進出を望む場合に放棄しなければならないものではなく、女性であること自体に付随するメリットと言える。これらの特権は、女性が社会進出を望む場合には放棄しなければならないものではなく、女性であること自体に付随するメリットと言える。

これらの特権の存在は、女性が必ずしも社会的に不利な立場に置かれているわけではないことを示している。むしろ、女性には女性としてのアドバンテージがあり、ある種の公平さが存在していると言えるだろう。

一方、女性が社会進出を望まない場合、つまり、家庭に入り、専業主婦として生きることを選択した場合、女性は男性と同等の責任を負う必要はない。家事や育児は、もちろん重要な役割であるが、社会的な責任や経済的なプレッシャーは、主に男性が負うことになる。この点において、男性と女性の間には、明確な役割分担が存在し、それぞれの役割に応じた責任と権利が存在する。

女性は、社会進出を望む場合と望まない場合、どちらの選択をしても、それぞれにメリットとデメリットが存在する。しかし、どちらの選択をしても、女性には女性なりの既得権益があり、男性にはない女性特有の権利が存在する。この点において、女性は男性よりも恵まれた立場にあると言えるだろう。

それに対して、中高年男性への差別は、日本に歴然と存在すると私は考える。その最も顕著な例が、「おじさん」「おっさん」「おぢ」といった言葉、また「おじさん構文」といった言葉に象徴されるような、中高年男性を貶める独特の表現である。これらの言葉は、中高年男性をステレオタイプ化し、嘲笑の対象とするものであり、明らかに差別的な表現である。

興味深いことに、英語圏には、このような言葉は存在しない。つまり、中高年男性を蔑視するという日本特有の概念が存在しないのだ。逆に言えば、日本にはこの「おじさん蔑視」という概念が存在し、これは中高年男性への攻撃に他ならない。特に、若者による中高年男性への攻撃は顕著である。SNS上では、中高年男性を揶揄する投稿が後を絶たず、中高年男性は常に攻撃の対象となっている。

さらに、中高年男性は、社会的な圧力や責任を一身に背負っているにもかかわらず、その苦労や貢献が正当に評価されていないと感じている。例えば、長時間労働や過重労働は、中高年男性に多く見られる問題であり、彼らは家庭や自身の健康を犠牲にして、社会や企業を支えている。しかし、彼らの努力は、当然のこととされ、感謝されることは少ない。むしろ、「古い」「頑固」「頭が固い」などと批判され、疎外感を味わっているのである。

さらに、中高年男性は、社会的な変化や新しい価値観についていけないと見なされ、時代遅れの存在として扱われることが多い。彼らは、長年培ってきた経験や知識を活かす機会を奪われ、社会から必要とされていないと感じている。このような状況は、中高年男性の精神的な健康にも悪影響を及ぼし、孤独感や無力感、さらには自殺願望につながることもある。

また、中高年男性は、家庭内においても、その存在意義が揺らいでいると感じている。例えば、子育てが一段落した後の夫婦関係において、妻から「粗大ゴミ」扱いされるなど、家庭内での居場所を失っていると感じる中高年男性は少なくない。彼らは、家庭においても、社会においても、自分の役割や存在意義を見失い、深い孤独感に苛まれているのである。

このような中高年男性に対する差別は、女性差別とは異なり、社会的な問題として認識されることが少ない。それは、中高年男性が、社会的に強い立場にあると見なされているためである。しかし、実際には、中高年男性は、様々な差別や偏見に苦しんでおり、その苦しみは、女性のそれよりも深刻である場合が多い。

私は、日本社会において、女性差別よりも中高年男性差別の方が深刻な問題であると考える。それは、女性差別が、社会的な問題として認識され、解決に向けた取り組みが進められているのに対し、中高年男性差別は、社会的な問題として認識されることが少なく、解決に向けた取り組みもほとんど進められていないからである。

日本社会は、中高年男性差別という問題に真剣に向き合い、解決に向けた取り組みを進める必要がある。そのためには、まず、中高年男性差別という問題が存在することを社会全体で認識することが重要である。そして、中高年男性に対する差別的な表現や態度の撤廃、中高年男性の社会的な孤立を防ぐための支援策の充実、中高年男性の経験や知識を活かすことができる社会の実現など、様々な取り組みを進める必要がある。

中高年男性は、日本社会を支えてきた重要な存在であり、彼らの経験や知識は、これからの日本社会にとっても貴重な財産である。中高年男性が、差別や偏見に苦しむことなく、生き生きと活躍できる社会を実現することは、日本社会全体の発展にとっても不可欠である。

私は、日本社会が、中高年男性差別という問題に真剣に向き合い、解決に向けた取り組みを進めることを強く願っている。そして、中高年男性が、差別や偏見に苦しむことなく、生き生きと活躍できる社会を実現するために、私自身も、できる限りの努力をしていきたいと考えている。

結論

本稿では、日本における真の差別は、女性差別ではなく、中高年男性に対する差別であるという主張を展開してきた。女性差別は確かに存在するが、それは女性の社会進出を阻む障壁であり、解決可能な問題である。一方、中高年男性に対する差別は、より根深く、深刻な問題である。それは、中高年男性を貶める独特の表現、社会的な圧力と責任の過重な負担、そして社会的な孤立など、様々な形で現れている。この問題を解決するためには、社会全体で中高年男性差別の存在を認識し、差別的な表現や態度の撤廃、中高年男性の社会的な孤立を防ぐための支援策の充実、中高年男性の経験や知識を活かすことができる社会の実現など、様々な取り組みを進める必要がある。中高年男性が、差別や偏見に苦しむことなく、生き生きと活躍できる社会を実現することは、日本社会全体の発展にとっても不可欠である。

追記

本稿で述べた内容は、あくまでも私個人の意見であり、異なる意見が存在することも承知している。しかし、私は、中高年男性差別という問題が、日本社会において見過ごされがちな重要な問題であると考えており、この問題を提起することで、少しでも多くの人に、この問題について考えてもらうきっかけになればと願っている。

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