踏み切り
この踏切は、遮断機が下りるといつも長いのだ。たぶん、私が待っているときは、いつも。
今日も、買い物帰りに渡ろうとしたときに警報機が鳴り出した。
警報機が鳴り出してから遮断機が下りきるまでには少し猶予がある。だから、若い時には全速力で走って渡ったこともあった。しかし、この年になって、両手に荷物を持っている状況では、それはもう無理というものだ。
もう、時間に追われているわけでもないので、大人しく遮断機が上がるのを待つことにする。
警報機には、やがて上りの電車が通過することを示す矢印が点灯していた。
夕方のこの時間帯に、待たなければならない電車は、一本ではないだろうなあと思っていると、案の定、下りの電車が通過することを示す矢印も点灯した。
踏み切りの前には徐々に自動車が何台も停まり、立ち止まる人も増えてきている。
私の傍らには、白髪の小柄な女性が立っていた。
やがて、一本の電車が目の前を通り過ぎた。随分スピードを出していたから、五百メートルほど先にある駅には停車しない電車なのだろう。
その電車が通り過ぎてしばらく待っても、上り電車の接近を示す矢印は消えなかった。
もう一本、上り電車が来るのだ。
まだ下りの電車は来ていない。
夕暮れのかわいた空気の中に、警報機の音ばかりが響いている。
そのとき、その警報機の音に抗うように、子どもの声がした。
「ねえ、のぼりのやじるし、きえないよ。」
踏み切りの向こうに、親子と見える二人が立っていた。若い母親と、四、五歳くらいの男の子だった。
「またひだりからでんしゃがくる。いまいったばかりなのに。みぎからもくるのに。」
母親が何か答えたようだったが、その声はこちら側のまでは届かない。でも、子どもの声はよく響いて、こちら側にもはっきりと聞こえてきた。
「ああ、まだわたれない。ひだりからもみぎからもでんしゃがくる。」
親子連れはどこへ行こうとしているのだろう。予定の時刻が迫っているのだろうか。
「ああ、でんしゃがこない。わたれない。」
劇の科白でも諳んじるような調子で、男の子は続けた。その様子に思わず頬がゆるんで笑ってしまった。
すると、傍らで同じように親子の様子を眺めていたらしい白髪の女性が、
「かわいいですねえ。」
と、つぶやいた。
「私、もう、まわりに小さい子どもがいないの。だから、ああいう子どもの声を聞くと、なんだか嬉しくて元気が出るわ。」
今度は私のほうに顔を向けて言った。
「ほんとうですね。」
私は相槌を打った。
女性は私の母親くらいの年齢だろうか。そうだとすれば、自分の子どもはもちろん、孫も成人して、今は夫と二人暮らしか、あるいは一人暮らしなのだろうかと想像する。
「私も、子どもたちはみんな大きくなってしまっているので、あんな頃がなつかしいです。」
面識はない女性だったが、夕暮れで薄暗く、お互いの顔がはっきり見えないので、話しやすかったのかもしれない。
やがて下り電車が、先ほどの上り電車よりやや緩やかなスピードで通り過ぎて行った。おそらく駅で停車していて、発車したばかりだったのだろう。だからまだ十分に加速されていなかったのだろう。
警報機は鳴り続けている。まだもう一本の上り電車が通過するまで待たなければならない。
電車が来る方向を伸びあがるように見ながら、男の子が言った。
「もういっかいでんしゃがこないとわたれないんだねえ。まにあうかなあ。まにあうかなあ。」
男の子の手を握っている母親が、大丈夫、と言っているように見えた。
「あんな頃が、いちばんよかったんでしょうねえ。」
しみじみと女性が言った。
「ええ、ほんとうに。あの頃は、必死で、無我夢中でしたけれど。」
私がこたえた。
「その通りよね。必死で。無我夢中で。でも、今から思うと、光り輝いていた時間だったんでしょうねえ。」
私はうなずいた。
手をつないでいる若い母親と男の子。その二人の様子を見ているだけで、自分の三人の子どもたちが幼かったころの日々がよみがえる。そして、成長していった時間が一気に脳の中を駆け巡っていったような感覚をおぼえた。
女性は、自分の子どもに加えて、孫との日々もまた思い出しているだろうか。
やがてもう一本の上り電車がスピードを落としながら通り過ぎて行った。おそらくこの先の駅に停車するのだろう。
警笛が、暗さを増してきた空に響いた。
遮断機が上がって、待っていた人々が踏切を渡りはじめる。私と女性も歩き始め、向こう側から母親と男の子が歩いて来る。ちょうど踏み切りの中央あたりで私たちは行き会った。道幅の広い踏み切りではないので、お互いに歩く速度を落として譲り合う。すれ違いざまに私も女性もどちらからともなく、
「気をつけてね。」
と、男の子に声をかけた。母親は少し驚いたような表情をしたが、すぐに微笑んで、はい、と答えた。男の子はきょとんとしていた。
そう、気をつけて。
今日これからの道行きも、明日も明後日も、その先も。
子どもが育っていくみちのりにはさまざまなことがあるから、くれぐれも気をつけて。そして、すこやかにしあわせに成長していってほしい。
踏み切りを渡り終え、まっすぐに歩いて行く私と、右に曲がって行くらしい女性は、会釈をして別れた。
家路をたどりながら、自分が子育てをしていた日々を思い出す。
長女の幼いころ、長男の幼いころ、二女の幼いころ。それぞれの成長の日々、きょうだいとしての時間。思い出はあとからあとからあふれてくる。
そして、今は成人して家を離れている三人の子どもたちが、いつか子どもを産んだなら、その子どもたちの成長に、また寄り添っていきたいと思った。
その日々を、いつか懐かしみたいと思う。自分の人生を、愛おしみ懐かしみたいと思う。
若い頃には実感できなかった、何気ない日常生活のいとおしさが、深く心に思われた。そして、この先の、たぶんそう永くはない日々を、より大切にしようと思った。
(了)
追記
伝吉_TellGladさまが当作品をマガジンに加えてくださいました。読んでいただけることがなによりの創作の励みになります。これからも努力して参ります。ありがとうございました。