見出し画像

手塚治虫年表1933年~1952年


2020年にFM宝塚で放送されたラジオドラマ「33-52 手塚治虫の宝塚」のシナリオ執筆のために作成した年表です。末尾にはラジオドラマ登場人物候補のリストも掲載しています。あくまでメモ書きなので乱文ご容赦下さい。

手塚治虫年表&エピソード集(年齢は満年齢)


1855年(安政2年)頃
手塚良庵と福沢諭吉の「遊女のにせ手紙」事件が起こる(空を越えて9頁)。

1927年頃(昭和2年)
父母明治神宮記念館で結婚。初めての男の子が死産(アーチストになるな2頁)

1928年(昭和3年)0歳
11月3日
大阪府豊能郡豊中町(現大阪府豊中市)で、手塚粲(ゆたか)、文子(ふみこ)の長男として生まれ、祖父手塚太郎によって治(おさむ)と命名される。

1929年(昭和4年)1歳

1930年(昭和5年)2歳
この時までに、萩の寺の裏に引っ越している。
8月パリゼット文子見る(河内29頁)
10月30日 弟浩生まれる。この時悦子の母岡田速女が産湯を使う手伝いを(悦子36頁)

1931年(昭和6年)3歳

1932年(昭和7年)4歳
3月23日岡田悦子生まれる(浩を取り上げた産婆と同じ産婆。名付け親は手塚太郎)(悦子34頁)。
9月妹美奈子生まれる。
11月19日長崎の控訴院院長をしていた、関西大学の創立者の一人であった祖父・太郎が亡くなる。

1933年(昭和8年)5歳
兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越す。
タカラジェンヌのことを「タヌキネエチャン」と呼んだエピソードはこのあたりか。

1934年(昭和9年)6歳
6月10日ラジオでエンタツアチャコ「早慶戦」初披露
9月室戸台風(実像57頁)

1935年(昭和10年)7歳
1月25日午前7時15分、宝塚大劇場火災。家から燃える劇場を見て泣く。
池附小学校の試験(実像24頁)
大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学付属池田小学校)に入学。
入学が決まってワッと泣き出す。
入学式の日、竹田典子と手を繋いで教室まで帰る。
4月宝塚大劇場復旧。
ポイトコナの話をする。
大森君が家に遊びに行く。ナカムラ・マンガ・ライブラリーの「アッパレカツちゃん」を借りて帰る(親友が語る37頁)。
好きな絵を描きなさいの時、富士山の絵を写真のように描いた(親友が語る15頁)。
手つなぎ鬼ごっこ(実像34頁)
金岡恵美子、堀口と宝塚の家に遊びに行く。地球儀を見ながら「日本なんてちっぽけだよ」と語る。そしてノラクロの漫画を堀口に貸す。(実像83頁)
体育は苦手。鉄棒の時、お前は肉屋の肉かと先生に言われる。
今日はいくつイジメられたの?のエピソードはこのあたり。
秋の遠足で京都の長岡天神に行く。10月熊が出たと作文に書く。
雪合戦をしたらしい。
最後の作文では、夢オチの「おばけ」(空を越えて108頁)

1936年(昭和11年)8歳
二年生のとき、髪の毛がちぢれていたので、「ガヂャボイ」というアダ名をつけられる。
日食を見た。
5月石原ビル着工、14年3月完成(石原296頁)
平賀翠さんに「この中で好きな絵があったらあげるよ」と言って箕面の滝と紅葉の絵をあげる。6年生の時に粲の撮った工場の写真数枚と交換で返してと言われる(平賀翠さん談)。
3学期、田河水泡の「小型の大将」が始まる。その頃から漫画を書き始める。

1937年(昭和12年)9歳
正月、朝日会館にディズニーを観に行く。文子がタクシーで「一円に負けなさいよ、運ちゃん」と言う。
1月満州風邪にかかって2週間学校を休む。エキホスのエピソード(空を越えて130頁)と、母がパラパラ漫画を書いてくれた。
父がパティーベビーという映写機を買ってくる。ミッキーを見る。
三年生になると、弟浩が入学してくる。
3月13日大阪電気科学館およびプラネタリウムオープン。
3月13日石畑家でタンゲサゼンの相談(実像48頁)
5月天王寺の大阪市立美術館の絵画教室にクラス代表として治虫が行くことに。浩も選ばれていた。ある日曜日、美奈子が熱を出して、母がついて行けなくなり、治虫と浩二人だけで大冒険。
6月第一次近衛内閣成立。
友達が遊びに来る。
6月神風を見に行く。
7月日中戦争始まる。
三年生の二学期から、乾秀雄先生が担任となり、綴り方教育をうける。「手塚のいるクラスですか」と言われるほど目立った生徒になっていた。(実像34頁)
坊主頭になり、主人公はそれがモデルの、最初のマンガ「ピンピン生チャン」を描く。
はつはりが行われる(空を越えて190頁)
田河水泡「のらくろ」や「ナカムラマンガ・ライブラリー」を愛読。
田河水泡のマンガ「小型の大将」を読むために『少国民新聞』をわざわざ購読してもらう。
授業で児玉道子さんを描く。
逆上がりができた。
この頃から、宝塚の風物詩がだんだん消えていく。
冬、電車の窓に落書き(実像34頁)

1938年(昭和13年)10歳
石原実が「原色千種昆虫図譜」を持ってきてみんなで回覧中、大森君が「今日から君をオサムシと命名する」と言って手塚治虫のペンネーム誕生(石原実さん談)。この頃から昆虫採集を始める。
宝塚にも隣組が組織される。聖戦完遂の世論。
原田三夫「子供の天文学」発行。学校に持っていき、クラスで天文学ブームに。
8月24日「ピンピン生ちゃん」(実像50頁)
11月3日誕生日会(空を越えて241頁)
自家製プラネタリウムを作って友達に披露する。(親友が語る48頁)
ピンピン生ちゃんが乾先生にバレるが怒られなかった。それどころか学校のガリ版印刷を使うことを許可される。
茶話会で漫才「早慶戦」を披露した(実像49頁)
金岡恵美子と一緒に石原実の家に休み時間に行く(実像81頁)
唱歌の参観日笑われる(実像84頁)
ヒョウタンツギ誕生はこの頃か(河内66頁)

1939年(昭和14年)11歳
元日の朝のこと(空を越えて237頁
3月1日14時45分枚方爆発(親友17頁)
3月19日石原ビル竣工感謝会(石原297頁)
四年の終わりごろ帽子取られる遊び(実像38頁)
五年生よりメガネをかける。
選挙で級長になる。先生と一緒に中島君を訪問(実像79頁)。
浅井君が入学(実像62頁)
東條登美子が入学。隣の席になる(実像86頁)
井瓜久美子入学(実像87)
毎月1日は「興亜奉公日」日の丸弁当と五月山に参拝(実像42頁)
火星人の出て来る紙芝居「火星人来る!!」を描く。
火星人のエピソード(親友が語る48頁)。
児玉道子さんが家を訪問(実像79頁)
「フクチャンと魚釣」というマンガの中に初めてヒョウタンツギが登場。
「支那の夜」という長編マンガを描いて学校で回覧、先生にも評判となる(※日下注・この頃まだ宝塚歌劇で「支那の夜」は上演されていないので多分記憶違い)
8月小学校が新校舎移転(1学期から竣工)。夏休み引っ越し作業(実像58頁)空き部屋ができた。校長と三郎、神奈川県に転出(実像59頁)
秘密結社結成。鉄筋の校舎が新築され、空き教室や、建築工事の作業小屋などで、友人といっしょに陰謀団ごっこをする。秘密結社「コンチススパーリング商会」のメンバーは大森、石原、村主、金岡恵美子など(実像68頁)(親友26頁)。(実像92頁)
『少国民新聞』連載の海野十三「火星兵団」に夢中になる。
自宅のトイレで「ドカーン」とか「ヒュー」とか奇声を発するのを弟浩が聞く。
夏六甲でのキャンプ
美奈子の運動会を父が撮影。家で上映。
十月十二日大政翼賛会発足
十一月三日誕生会。父の映写会(実像13頁)
十一月友人たちといっしょにガリ版刷りの回覧誌「世界科学体系・共同製作文庫」をつくる。(実像60頁)50部。「昆虫のふしぎ」「水蜘蛛の巣」「面白い木」「四季の草花」
「ピーピーピーコ」などを描く。
宝塚昆虫館ができる。福貴正三学芸員に話を聞かせてもらいに行く。
地図帳遊び(実像66頁)
相撲「鶴ヶ峰」(実像71頁)

1940年(昭和15年)12歳
2月6日(日)父の映画「子供の四季」を家で上演(親友が語る53頁)
3月28日ミスワカナ、ディックミネなどが改名させられる(石原282頁)
六年生。
昆虫採集にだいぶ凝っているはず。夏妙見山で(実像54頁)
伊勢参宮
5月26日~6月24日「支那の夜」が宝塚の花組でやる。(マンガを描いたのはこの頃か)
6月砂糖・マッチが切符制。
鳩を可愛がっていて、東くめ先生の家に、堀口と行く(84頁)
秋「民族の祭典」を観てオリンピック遊び(実像72頁)
インディアンごっこ(実像72頁)
日曜日井瓜久美子の家に遊びに行く(実像87頁)
次第に受験ムードに。

1941年(昭和16年)13歳
 卒業間近「田河水泡が一番好き」と言う。(実像75頁)
 3月19日~24日北野中学入試。口頭試問で、製本のことを話す。「クモの生活」が送られてた。美術班に所属する。3月25日合格発表(アーチスト44頁)。玉井勇は落語(実像95頁)
 2階の6畳間を一人で使えるようになる。浩が中学に入ると八畳の部屋に。
池田師範付属小学校を卒業、大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。一年三組。担任は美術の岡島。
石原実は池田中学に入ってMAYAの時計をもらう(石原268頁)(石原307頁)
4月の終わり、クラブの新入生勧誘行事である登山班の生駒山登山。林久男と仲良くなる(昆虫つれづれ草228頁)
週一回、農園実習。虫取りをする。
マンガを描いたため、軍事教練の教官からにらまれる。マンガのことでしかられたときは、美術教師の岡島吉郎先生によくかばってもらう。石膏デッサンで褒められ岡島先生に美術班に入るよう勧められる(アーチスト49頁)
昆虫採集に熱中し、「昆虫戦線記」「昆虫の身の上ばなし」などの昆虫を題材にしたマンガもかく。「ママーたむていものがたり」をかく。
浩の漫画をぐちゃぐちゃにする。以来浩はマンガを描かなくなる(僕のマンガ人生103頁)。
5月米が一日2合ちょっとの配給制に。
6月踊り出す首(昆虫53頁)
7月の土曜日。林久男と一緒に、梅田阪急に虫取りセットを買いに行く(昆虫つれづれ230頁)。次の日の日曜日、初めて治虫の家に行く。その日、一緒に昆虫採集。
8月、川西航空機株式会社(仁川)で、勤労動員始まる。漢学、神戸女学院、小林聖心、宝塚音楽学校の生徒が働きに来ていた。
この年の夏は、林久男と昆虫一色(昆虫231頁)
 2学期地歴班に所属。博物班の発足を学校に呼びかける。二年生になって通る。
「丹平写真倶楽部」に属する父、「流民ユダヤ」発表(河内68頁)
父に召集令状が来て陸軍主計少尉として堺の陸軍病院に勤めた後、満州と朝鮮に渡り、一度帰国するも、戦争が激しくなってからまた南方フィリピンに向かう(空を越えて268頁)
12月8日真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。

1942年(昭和17年)14歳
1月塩が通帳制による配給になる。
2月、衣料切符による衣料品の配給。通帳制による味噌、醤油の配給。
二年五組。
グライダー部が出来る。美術部の岡原入る(親友117頁)
4月18日
天津乙女が歌舞伎座で見物中に空襲に遭う。
6月
地歴班から分離独立して博物班ができ、同窓の友人らと動物同好會設立。
10月通帳制による野菜、果実、鮮魚、海産物の配給。
7月31日
動物同好會の会誌「動物の世界1」を発行。翌年にかけて大学ノートに絵入りのクイズを描いた「智恵の豆袋」を発行(18号まで作成)。
8月11日
天津乙女の父死亡。

1943年(昭和18年)15歳
1月15日
「原色甲蟲圖譜」第一集を発行(国松70頁)。
3月1日
「動物の世界2」を発行。
3月
初めてペンとインクを使って"ヒゲオヤジ"を主人公に「オヤヂ探偵」をかく。
三年二組になる。担任は西野種吉(クラゲ)。
一学期長坂五郎校長が更迭、田村清三郎(ギョロ)が来る(98頁)
4月15日
「原色甲蟲圖譜」第二集を発行。
4月15日に「くもとちゅうりっぷ」封切。
この年のどこかで明石の映画館で「くもとちゅうりっぷ」を見る(漫画家が見た手塚治虫205頁)。おそらく四月中。
5月
「動物の世界3」を発行。
佐賀中学から、田村清三郎が校長としてくる。配属将校が幅を利かす(アーチスト56頁)。
6月
「オヤヂ探偵物語 バリトン工場事件」を発行。
8月12日
「動物の世界(記録號)」発行。
8月
非公式なグループ"六陵昆蟲研究會"を結成する。
8月美奈子が蟻の巣のことを言う(昆虫46頁)
9月18日
六陵昆蟲研究會の会誌「昆蟲の世界1」を発行。
10月3日
「昆蟲の世界2」を発行。
11月
「ヒゲオヤヂ南方戦線記」を描く。
11月20日
「昆蟲の世界3」を発行。「ヒゲオヤジ」の勤労奉仕。
12月、昭和13年頃から全国的に広まりつつあった、国民健康保険組合が宝塚でも組織される。保険料は、被保険者一人につき一年で4円61銭。
12月20日
「昆蟲の世界4」を発行。 阪急百貨店文房具部で発行していた『昆虫手帳』を使い、友人との情報交換などもしていた。
マントク、出征(実像98頁)

1944年(昭和19年)16歳
マラソンで20位に(実像103頁)(アーチスト47頁)
学徒勤労動員が通年と閣議決定される。
3月1日通達、4日宝塚大劇場閉鎖。海軍に接収される。
3日、4日の最終公演、超満員。
3月31日
エッセイ集「昆蟲つれづれ草」を発行。
3月31日
「原色櫛水母圖譜」発行。
3月31日
「原色増訂ヒドロ蟲類圖譜」発行(元版は'43年5月31日発行)
3月31日
「原色増訂ヒドロ蟲類圖譜」発行(元版は'43年5月31日発行)
最後に「予科練受けたらどうや」(親友117頁)岡原が陸軍に行く(親友118頁)
四年一組になる。
4月1日。担任は大田秀雄。動員で、かわりにチャカ。
「昆蟲の世界9」を発行。
5月1日
「昆蟲の世界10」を発行。
5月父南洋へ行き音信不通(河内76頁)
6月1日
「昆蟲の世界11」を発行。
軍部からの通達で予科練に志願するように推奨される。治虫は目が悪くて予科練は落ちる。(実像104頁)
8月3日~30の予定
仁川の一里山健民修練所に入所、家に帰ったエピソード(親友116頁)。2週間ほどで腕が水虫にかかり出所。阪大病院に行ったら、あと、2、3日遅かったら敗血症で手を切るところだった。母への感謝と医者になる夢が芽生える。
9月
勤労動員で淀川べりの中津浜通り三丁目大阪石綿に勤める。月額40円から60円。
トロッコを押す係り(アーチスト60頁)(親友140頁)
エッセイ集「研究記録雑話 春の蝶類」を発行。

1945年(昭和20年)17歳
3月13日大阪空襲。3月14日にアメリカ機が落ちる(親友148頁)
卒業前に、大阪府立浪速高等学校を受験し、落ちた。
大坂帝国大学付属医学専門部を受験。合格。ただし入学延期。
3月22日
北村君、来る。クラス会の相談。
三宅と倉庫の食べ物を盗む計画、失敗。
3月23日
朝日会館で「決戦映画と講演会」に行くため、午前中工場を休む。ちっとも面白くない。
キクオ書店で「最新科学画報」四冊を買う。「昆虫大図鑑」も買いたかったが、その店は休み。
3月24日
岩木さんの小母さんがいざこざから逃げてきていた。
3月28日
北野中学卒業式。卒業証書はもらえない。工場動員は継続(6月までという話)。
林久男と一緒に帰り、家でいろいろ話した。将来のこと。巻き寿司を食べる。
林泊まる。十時半頃消灯するが、まだいろいろ話す。
3月30日
一昨日までの欠席証明書を母親に持ってきてもらうが、チャカに殴られる。
最後の乾パンの配給。当分ないらしい。
4月1日
アメリカ軍沖縄上陸。ヒトラーも自殺し、本土決戦が叫ばれる。
三宅が平井のあとをついで満州に行くことが決まった。堀口、上原、小林、末黄の四人を送り出し、金津が農村へ行った。さみしくなった。葛野からマンガのフィルムをもらった。
4月2日
スイチューやダルの似顔絵を堤防で描く。木村卍がタバコを持ってくる。北村君や辻ポンとのむ。辻ポンが宿直室でのびてしまった。
難波で焼け野原を見る(河内77頁)
4月4日
おそらく三宅の送別会を大阪で。黄瀬が全裸になって、梅田を練り歩く。
4月5日
黄瀬が吉村を殴る。
4月6日
工場。黄瀬が新しい番傘を持ってくる。
4月9日
大阪駅で7時15分、青山の歓送。菅沼と青山の挨拶があり、それから上田、八橋、吉見などが代わる代わる出て、応援歌や拍子をやった。清廉の君子、尾崎君までがどたんばたんやりはじめた。「富士の白雪ゃノーエ」と歌いだす。警察来る。上級生は誰だ。みんな黙る、ならお前が来いと治虫の腕をつかんで引っ張る。辻ポンが来て、手塚、はよう逃げろ、と言った。「そんならお前が来い」と辻ポンが三人がかりで連れていかれる。治虫も一発殴られる。中断したが、壮行会は続き「海ゆかば」と万歳三唱。黄瀬が「ちこくやー」と来る。裸踊りはしない。その後、辻ポンを救出しに、駅長室にどかどか入っていく。
4月10日
チャカが午前中いなかった。昼休みにレコードをジャカジャカかけた。スイチュウはレコードをケンカした時割ってしまったらしい。
4月12日
工場を休み、大阪松竹座で「桃太郎海の神兵」を観る。12時15分開演。感激。
4月23日
「幽霊男」を描き始める。
4月25日
小山内実が家に来て、一緒に箕面に採集に行かんかと誘われる。出発は明朝に延びたそうで、箕面へ採集に。
春頃、林久男に、空襲で焼けちゃダメだから半分ずつ持っておこう、と「昆虫つれづれ草」の原初を渡す(昆虫つれづれ草228頁)。
4月28日
高橋は似顔絵をプールに忘れた。組で級報「若鮎」を創る相談をしていたら、チャカに殴られる。
4月30日
風邪ひいて工場休む。
5月3日
淀川堤防で教練。柔剣道。堤防を二回回る長距離。六等。中切で変な切り方をしてチャカににらまれる。
5月4日
未明に空襲警報。マラソン疲れでゴタゴタ。工場遅刻。チャカに怒鳴られる。
5月5日
電車の故障で遅刻。チャカ、めずらしく何も言わず。
5月7日
昼休み堤防でスイチュウやダルマやコンなどと空手や柔道をする。加納が生きた蛇をつかんで運河にはまる。コンは黄瀬に解剖される。
5月13日
数日チャカが休みだったらしい。菅沼級長やめさせて、とパッチがチャカに言いに行く。昼休み、チャカは加藤に宿直室のタタミをどうにかしろと言った。黄瀬や上田に乾パンを取られる。
5月16日
前川君の家で彼の送別会をやる。難波駅のすぐ。30人ばかり集まっている。乱痴気騒ぎ。まじめな山田、尾崎、桜井といった連中がぐいぐい酒やタバコをのんでいる。溝延やダルは真っ赤になって酔いつぶれ、辻ポンは悪酔いして管を巻いていた。出歯が解剖された。車座になって、一人ずつ芸をする。北村君はモンパパ。吉田君は歌いだした。
夕方、前川の壮行会。富士の白雪、応援歌、デカンショを歌いながら、ぐるぐるまわりを回った。黄瀬がまた遅れてきた。裸になった。みんなも裸になった。
5月17日
工場でも前川君の壮行会があった。
6月1日工場空襲。消火活動。無事帰る。
6月7日工場空襲。金津の家が焼けているのを発見(親友150頁)30キロ歩いて宝塚へ(廃墟52頁)。大空襲の様子は(空を越えて277頁)
帰りにおにぎりを分けてもらって、後日お礼に行ったらその家も焼けていたエピソード。
6月
日本およびアメリカの漫画キャラクターのオンパレードによる戦争もの「勝利の日まで」を描く。
6月
丸ペンに墨を使って描いた「幽霊男」完成。
6月20日水曜日、宝塚空の休みの日。日曜日だったのが、水曜日に変えられた。なぜなら七つ釦の制服少年たちがどっと街へ繰り出すので、お祭り騒ぎになる。水曜日に女学生のずる休みが増えた(予科練32頁)。
7月1日
大阪大学付属医学専門部に入学。(入学は4月だが6月まで動員が解除されなかったためか。受験は口頭試問で、焼け跡の広場で行われた。廃墟50頁)「冒険狂時代」の原案となった劇画的タッチの「おやじの宝島」を描く。
7月24日川西航空機株式会社宝塚製鉄所が空襲に遭う。B29と小型機150機から爆弾が投下された。工場で死者83名、重傷者39名。それ以外、市内の死者23名。良元村と川西航空機株式会社からの見舞金は一人たったの50円。
7月29日泉谷の動員先の住友金属が空襲(実像19頁)
7月30日少女歌劇の送別会。からの鳴門事件(予科練149頁)8月2日
8月14日のビラを見る。次の日休もうと思う。
8月15日玉音放送。大阪へ出て阪急百貨店のロビーから大阪の街の電灯を見る。
医専は9月いっぱいまで休みに。
8月21日
「恐怖菌」を描き始める。
9月林久男と箕面に昆虫採集。
9月26日進駐軍(アメリカ軍第六軍第一軍団第三十三師団)が宝塚に駐屯する。
南口から逆瀬川、仁川などの高級住宅地が接収され、将校用の住宅になった。壁はペンキに塗り替えられ、網戸が張られて、畳の日本間は洋間に改造され、和式便所は洋式トイレに変えられた。その後27年になるまで返還されない(宝塚市史第三巻)。
10月、11月、妹美奈子と北野劇場に宝塚歌劇「ピノチオ」を観に行ってはまる。ピノチオが春日野八千代。女神様が淡島千景。「ぼくはあなたを知らないなぁ」の台詞を真似る。
秋頃、(12月はおそらく間違い)本田一二と会う。そこで裏工作しようとするが失敗(手塚治虫の宝塚172頁)。
11月3日
「恐怖菌」完成。
10月頃、長谷淑子が、毎日新聞社の秘書課に勤める(翌年3月まで)。治虫の漫画を程野に見せる。そして、会う(アーチスト83頁)(長谷が結婚して引っ越す時、「え!それは本当ですか!?本当に結婚するんですか?」)
11月に書き、12月に持っていく。

1946年(昭和21年)18歳
1月1日予告編が載る。朝6時半頃、駅前の新聞販売店に行ったがなく、清荒神へ、売布神社へ、とうとう新聞を求めて大阪の新聞社まで。
1月4日
マンガ家・手塚治虫デビュー作の四コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が『少国民新聞(のち毎日小学生新聞)大阪版』で始まる。
父復員。フィリピンでの豚肉の話をする(廃墟の残響60頁)。
父のものを売ったので怒られる。乾先生に本を借りに。
2月5日
宝塚大劇場が進駐軍から返還される。大劇場復帰公演は4月1日「カルメン」「春のをどり」と決まる。ただし、発疹チブスの流行のために4月22日に延期された。
3月長谷淑子退社「結婚するんですか?」(アーチスト89頁)
4月京都日日新聞「珍念ちゃんと京ちゃん」連載
4月22日
初日、治虫観に行く。春日野の「天国にいる人たちに約束します。永遠に清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを」を聞く(手塚治虫のタカラヅカ178頁)。父は家のことは自分と関係なく進んでると感じる。
5月15日
大阪朝日会館で阪大医専文化祭が行なわれピアノ独奏を披露。「ども又の死」で初舞台。この文化祭を契機に6月に、医専の学生のほか大阪女子専門学校が合同して学生劇団学友座が発足し、参加する。
6月2日
一日ロストワールドをかく。
6月7日
学校サボってロストワールドを描く。美奈子がピノチオの本をなくして泣く。同居人のクユが隠していた。
6月8日(土)
宝塚を観劇。花組「メキシカーナ」「銀獅子」「ミモザの花」越路吹雪初主演。
6月9日
ロストワールドとピアノ
6月10日
大掃除。風が強い日。
6月11日
9時半に早弁してしまい、力が出ない。斎藤や小久保は中之島にボートに乗りに行ったが、治虫は暑いので帰る。
6月12日
今井と工藤は宝塚を観に行った。YMCAで三年の連中とドンドン騒いでいたので行けなかったのでビールでヤケ酒。
6月13日
吹田の関西マンガクラブを覗いてみる。老婆が浮かぶ。
6月14日
サボってロストワールドとピアノ。一日中裸だった。
6月15日
午前二時頃掟、月食を望遠鏡で観察。
初舞台「ども又の死」の記念撮影の後、工藤と中央公会堂に移りチェーホフの犬(結婚申し込み)の本読み。
その後、社会党の奴の演説を聞いてやる。
小山内氏が晩に来てするめとタバコ。
6月16日
林久男に虫取りに誘われるが、土砂降りなので、網だけ貸して一人で行かせる。「ミモザの花」のラジオ中継を聞く。
6月18日
国際シネマに「夜光る顔」ピンとこない。
6月19日
コーラスの練習。
6月21日
関西マンガクラブで、大坂ときをに会う。同じ趣味の人に会うのはこれが初めて。家でコソ泥騒ぎ。
6月22日
小山内氏と放課後神崎川の喫茶店でポスターを頼まれる。
6月23日
初めて墨汁を使う。それまでは墨を擦って書いていた。
6月24日
「珍念ちゃんと京ちゃん」の原稿を書いたり、大坂氏、南部氏に手紙をしたため、京日に行って、今日こそは継続か否かをきめるため話そうと思ったが、倉重の野郎が休みだったのでうやむや。
6月25日
雨。久々に学校に行くが、悪友どもに誘われ「カサブランカ」を見る。
6月26日
昼から演劇部、音楽部の集会あるも要領をえずして帰る。「ロストワールド」書く。
6月27日
朝5時から四時間も並んで宝塚のチケットを取ってあげるも、自分は観られない。
6月29日
京日に行く。
7月1日
母と一緒に京日へ行き、松岡、倉重の両氏と面会す。好評と聞いて満足。
7月2日
大坂ときをの依頼によるTOPの原稿を書く。
7月3日
林久男と電気科学館で「虫の星座」と「この虫10万ドル」を見る。大坂ときをから返事。酒井七馬から丁寧な原稿批評があった。
7月4日
「珍念と京ちゃん」を書いていたら、玉置と今井が遊びに来て、母は早くかけと言い、やっと8枚書いて京日に持って行ってもらった。20年来のへそのゴミを取って狂気乱舞する。
7月5日
父と共に玉置氏および竹田氏邸訪問。夜サルマタがすっかりなくなってしまって大変。
7月6日
今日こそマンガに集中しようと思ったら、10時頃今井兄弟が遊びに来て、昼から「全国宝塚会」のご相伴で、帰ったら小山内氏が来て、結局泊まる。小山内氏のケーキで機嫌がよくなる。
7月7日
去年までは支那事変記念日。今日からはただの七夕。浩は箕面へ行き、オオムラサキ三匹捕る。父は麻雀で80円も取られる。
7月8日
どしゃぶり。原稿がベタベタ。散髪。大坂ときをと二人で酒井七馬の家に行く。いろいろ話す。小山内の家に行く。「神崎川の哲」の家に行く。少国民新聞から、また連載頼みますと手紙がくる。ここでハローマンガに連載決まる(廃墟80頁)いろいろ話す(七馬92頁)
7月9日
毎日新聞の平田部長と会う。御影に行って竹田邸に親父の手紙を投げ込む。
7月11日
少国のアイディアを一日練る。
7月12日
今井兄弟と歌劇を観に行く。4列目の席。進駐軍の横。
7月15日
酒井七馬から原稿受領の知らせあり。
7月17日
YMで「トイ・シンフォニー」の練習。中央公会堂で演劇部の稽古。パントマイムで「十年ぶりで家に帰って来た時の動作」笑う。
7月18日
ロストワールドかく。浩は食欲不振。
7月20日
ラジオで「月光」の第三楽章をきいて、練習する。少国民新聞で新連載「AチャンBチャン探検記」開始。
7月21日豪雨により、仁川弁天池堤防決壊。
7月23日
お金なくなる。本を売らなければならない。
7月24日
毎日新聞で程野支に原稿渡す。YMで「生命の冠」読み合わせ。帰り工藤に誘われて梅新のある喫茶店へはいったら、薄茶に小指ほどの羊羹で24円。
7月25日
越後獅子を観た。
7月26日
毎日新聞で原稿料60円もらう。天満あたりで氷とアイスキャンディーばかり食べる。梅田小劇場で「韋駄天街道」を見る。大阪城前で初めて婦人警官を見る。
7月27日
水虫が今年もよろしく。
7月28日
夜今井氏来る。
7月29日
台風接近。
7月31日
石原氏、西谷氏とともに玉造の印刷屋に支払いに行く。読めないような粗本なのに12円50銭も取られ、完全な赤字出版である。天満錦座で鈴木澄子の「七草猫」を観、それから心斎橋へ出て紙屋でわら半紙を買い、「暗黒街」「孫悟空」を観て帰る。闇市取締り最後の日なので、ものすごい人出だった。
8月1日
学友座の会合。闇市はほとんどが店じまい。食い物は5円まで、飲み物は3円までに限定された。
8月4日
学校から帰ると酒井氏より原稿料50円送られてきていた。毎日新聞から、滋賀新聞が治虫のことを聞いてきたと知らせがあった。
8月5日
大阪松竹座で「幽霊ニューヨークを歩く」を観る。夕方矢野紘の音楽会。
8月6日
ロストワールド、製本父に手伝ってもらい、ケンカになる。
8月8日
玉出の酒井氏の家訪問。「ハローマンガ」の原稿を渡す。難波でふたたび「幽霊ニューヨークを歩く」を観る。
8月9日
40度の熱を出し、倒れ、うんこを漏らす。
8月10日
39度6分。夜にはだいぶよくなった。川口医がきて、ヴェーネン、インジェクチオンをし、シッポのとれたキシタアゲハをほめて帰っていった。
8月14日
200円持って上本町二丁目へ商売道具を買いに行く。母が夏服を売って作ってくれた。ケント紙を買った。
8月15日
一年前に思いをはせる。西宮球場で全国中等野球開幕。
8月16日
一日「ロマンス島」書く。
8月20日
台風の日。吹田で待ち合わせて行った。関西マンガマンクラブ例会に出席。大坂ときを宅。東浦光男と初めて会う(アーチスト98頁)、江本流梅、田中正雄。この席で酒井七馬より単行本の依頼を受ける。この様子は(七馬97頁)
8月21日
西宮会館で母と「幽霊ニューヨークを歩く」を観る。三回目。
8月26日
不二書房の中村さんが来て、くれぐれもよろしく。
8月28日
上田さん程野さんにゴッソウになり、原稿料値上げ。YMでピアノ弾き、帰りに桜橋でリストの「愛の夢」を5円30銭で買う。家に着いたら酒井氏が「新宝島」のことで着ていた。8時ごろ帰る。
10月
「生命の冠」のリハーサルで、大阪府率助詞専門学校の国文科だった松下さんに、「ぼくはマンガを描いている。これでぼくはおやじより収入が多いんだ」という。
10月30日
毎日会館で学友座第一回公演が行なわれ、「生命の冠」(作:山本有三)に杉本得平という老人の役で出演(〜10月31日)。 最初の「ロストワールド」完成。
暮れ頃、落語家の二代目桂春団治のポスターを描く。清荒神の家に原画を届けると、弟子が素っ裸の春団治のマッサージをしていた。君も弟子にならないか?
この頃から、岩谷時子の紹介で歌劇と宝塚グラフにマンガを描く。

この年のどこかで京都の出版社白いライオン

1947年(昭和22年)19歳
1月3日
父のお供で、朝日会館へマンガ大会を観に行く。長蛇の列。マイティマウスの「グリーン・ライン」と「ポーキイの鶏泥棒退治」
1月6日
不二書房の中村さんに会うため「キングコング」を急いで書く。
1月7日
中村さんと会うが多分間に合わなかった。
1月9日
昼から酒井七馬を訪ねる。マンガ映画を論じ、コーヒーとケーキをおごってもらう。
1月10日
大坂ときをの家に行く。11時になるのにぐうぐう寝ていた。大阪新聞の川合恆雄と会うが、つきあいにくい人だと感じた。
1月12日
母、美奈子と歌劇へ行く。超満員。ダフ屋が粘る。梅田さんに頼んでおいた座席券がすりかえられて目も当てられない場所になっていたので、美奈子が泣き出す。
1月18日
新協劇団の「どん底」観たかったが、売り切れ。宝塚中劇場で「ラインの監視」を観た。
1月22日
実に実に寒い。
1月23日
輿論新聞に行ったら、またマンガを頼むと言われた。
1月26日
学友座の集まり。「どん底」の批評および、「白衣の人々」の台本配布。
1月29日
宝塚中劇場へ「桃色の旅行鞄」を観て、それから松田さんのところに400円返してもらいに行くが留守。困った。
1月30日
350円支払いがあり、昆虫図鑑を売ろうかと思ったが、母が有り金はたいて貸してくれた。
2月1日
ストになるかと思いきやマッカーサーの一言でなくなる。学校サボれず残念。
2月2日
中村氏来る。キングコング完成。次回作の相談。
2月4日
学校帰りに育英出版社に行って「新宝島」の出来具合を尋ねる。もうすっかり出来上がっていたので二冊もらった。奥付が酒井さんのみになっていたので大いに憤慨。ヤケ酒かっくらって帰る。
2月5日
学校に新宝島を持っていったら今井や斎藤がひがんで、おごれおごれと言う。
2月
酒井七馬原作の長編マンガ「新宝島」刊行。版を重ね四十万部を売り尽くす。
2月7日
学校帰り大阪新聞で河井氏に会った。「新宝島」についてほめてくれた。
2月10日
こたつの中で原稿。鼻血を出す。
2月11日
宝塚中劇場で「淑女と拳骨」を観に行く。夜酒井氏来宅。10時半まで次回作「怪ロボット」の打ち合わせ。
2月12日
帰ってさっそく「怪ロボット」にとりかかった。
2月14日
雪。武田氏と難波で「極楽闘牛士」と「断崖」を観た。南部氏の家へおしかけていって、ありとあらゆることをわめきちらし、おかげで終電車に乗り遅れるところだった。
2月16日
「キングコング」原稿料として1500円入手。
2月21日
紙が心細くなったので、宝塚、西宮、池田の紙屋を探したが紙はなかった。
2月24日
朝、丸善で「新宝島」を四冊買った。
3月3日
親父、マラリアの再発。
3月7日
南部正太郎から電報。
3月8日
行ってみたら、スリーマンクラブ主催で漫画展をやらないかという誘い。得はなさそうなので断った。ヤネウラ3チャンはもう4、5日でおしまい。南部、武田は近々東京へ行くそうだ。
3月9日
食道楽(宝塚の土産屋)にマアチャン人形が出ていて、10円も出して買う。歌劇の梅田氏に会って原稿を頼まれる。
3月11日
宝塚中劇場で「肉体と幻想」を観たが暗くて字幕しか読めない。
3月13日
学校帰り、輿論新聞へ行き、次の漫画を頼まれる。大阪新聞で坂野氏に会う。「ヤネウラ3チャン」の後釜を誘われ、迷う。
3月15日
映画が5円値下げ。
3月18日
大阪新聞により、坂野氏と有文堂へ行き、「マアチャントンチャン」の原稿料1300円もらった。
3月20日
神戸まで行って、泥棒市場で紙を探すがなかった。しかし、場末の紙屋で上等のストック品を発見、6冊も買った。
3月21日
紙が絶好調。
3月22日
親父は淡路へでかける。池田の本屋で初の赤本「タカラジマ」をみかける。東浦美津夫クンから手紙。
3月23日
朝、手紙書き。「ポンポコ三勇士」を午前三時まで書く。宝塚でも「タカラジマ」発売。
3月24日
中劇場で「この虫百万ドル」を観る。
3月25日
喫茶店「白水」でシルコをのんで、あまりうまかったので、5円だと思っておかわりしたら10円だったので逃げた。
3月28日
一日「火星博士」を書く。
3月29日
朝9時からチェーホフ「犬」の読み合わせ。夕方、石原氏訪問。北村氏自身の創作を読む。歌劇発売。マンガがきれいにでていた。オヤジは、5万円のくちがぽしゃる。
3月30日
「新宝島」第二版の奥付にまた名前がない。縁を切ることを決心。梅田小劇場でマンガ祭りを観て、その後梅田グランドで「凸凹お化け騒動」を観る。非常に面白し。9時半帰宅。輿論新聞から手紙。
3月31日
「怪ロボット」の原稿を酒井氏に返す。縁を切るため。
4月1日
はがきが50銭、手紙が1円20銭になり、ピースが20円になる。阪急に急行が動き出す。
4月2日
上等の豚靴を履いて、朝日新聞の大玄関の階段ですべって宙返り。母が二人組の組長になって、どんちゃん騒ぎ。父は、同居人の柴藤さん(離れ座敷)に写真を自慢しに行く。
4月9日
「ラムネイ殺人事件」に取り掛かる。初めての大人向けストーリー漫画。
4月12日
「白衣の人々」三場、立ち稽古。梅田で「狐のくれた赤ん坊」を観る。五時半より朝日新聞社四階にて「犬」の立ち稽古。キャスト、ステパン・ステパノヴィチ・チュブコフ中村。ナターリア・ステパノーブナ鈴木、イワン・ワシリイッチ・ロモフ手塚。演出山下。
4月15日
4時半より会館で新協劇団の「武器と自由」を見学。空砲で肝を潰す。
4月16日
1日「バット博士とジム」を書く。晩、朝日新聞で「犬」立ち稽古。
4月17日
1日かかって「バット博士とジム」を完成。
4月18日
4時半、有文堂奥座敷「新漫画ロマン派」の結成披露宴。中村治之、河井恆雄、武田、イワタタケオ、田中漫平、川島、手塚。二次会で河井管をまき、坂野氏の頭をぴしゃぴしゃやる。
4月21日
留守。「バット博士とジム」の原稿料3500円有文堂の掛川軍次が持ってくる。岩木の叔父が大阪で参議院選挙で勝つ。
4月23日
敷島劇場で「クリスマスの休暇」をのぞいたが大したものではない。晩遅くまで「犬」の稽古。
4月24日
同居人柴藤さんの姉ちゃんが、誰かがガラス戸の外にいると言って茶の間へ逃げ込む。
4月25日
昨日の音はネズミだった。
4月27日
歌劇に黒木ひかる(1925年生まれアンナ)がかわいらしい漫画を書いている。会いたい。
4月28日
朝から「犬」立ち稽古。頼いわく中央公会堂の人形座のあやつり人形そっくり。矢島とダンスしたら尻餅。
4月29日
阪大文化祭(朝日会館)で上演した「犬(結婚申込み)」に出演。主演。文芸社編集部訳編
5月3日
学友座第二回公演(毎日会館)「白衣の人々」(作:キングスレー)に凹凸コンビのチビ公の役で出演(〜5月6日)。井瓜久美子が見に来る。(実像89頁)
5月9日
未明、相当大きな地震。浩が屋根に上ったかと思った。
5月10日
今日から新聞が、一部40銭。
5月11日
宝塚グラフの原稿。昼過ぎ北村のオヤジさん訪れる。
5月12日
西宮会館で「ネズミの野球」を観る。
5月15日
歌劇事務所に行く。マンガ気に入られた。黒木ひかるに会いたい。くれぐれも頼む。
5月16日
奥秩父の洞窟から旧石器原人の化石、横浜からステゴザウルスの化石。
5月19日
結核予防ポスターを書く。
5月22日
美奈子のインキがポケットで潰れ、駅降りたところで汚れる。
5月23日
小山内と新国劇「シラノドベルジュラック」を観に行く。島田うまい。二階の「り」席。鼻が見えない。
5月26日
「象を食った五人」鑑賞。
5月30日
会館の「我が恋せし乙女」山の風景が綺麗だった。
5月31日
410回をもって南部の「ヤネウラ3ちゃん」終わり。
6月1日
今月の研究作品は「火星博士」。武田氏の「ミスターA太郎」面白くない。
6月2日
「火星博士」執筆。ニセ10円札が出回ってる。
6月4日
「火星博士」オヤジは自分ひとりのためにホルモン料理を買ってきてうまそうに食っている。片山内閣発足。
6月7日
「火星博士」を学校で、遺伝や生理の講義の時、セッセと仕上げ。宝塚中劇場で「呪いの家」を観たら夕立がミックスしてすごい効果。
6月8日
中村氏に会う。
6月10日
午後三時までコダマハルカの似顔絵を書く。カンシャク起こして猿のようなウメちゃんを描いて歌劇事務所に持っていく。
6月11日
学校休んで「火星博士」
6月12日
「愛のアルバム」を観に行く。
6月13日
夜梯子段から転げ落ちて右の手をくじく。
6月16日
梅田グランドで「ノートルダムのせむし男」トーマス・ミッチェルじゃなくチャールズ・ロートンが主演。
6月17日
春田と歌劇と浪花節について議論。オヤジがまた晩飯に妙なものを買ってきたが、臭くって誰も食わなかった。
6月22日
中村氏来たり、「火星博士」原稿渡す。国家試験捨てたと言われる。
6月23日
有文堂、坂野氏機嫌悪い。田中漫平に会って、二人で大阪ときをを訪ねるが留守。梅田へ出て「モロッコ」を観る。
6月24日
次の研究作品は「モモーン山の嵐」と決める。
6月25日
有文堂で色紙を無理に書かされていたら、武田将美が来た。「怪人島」をけなしたいが弱気で別の話。
南部の家に行く。南部氏は東京から帰ってきていて、ひがんでいるせいか、武田の「ミスターA太郎」をくさすことくさすこと。武田氏起こってる。ビフテキを食べる。
6月26日
「話の泉」が大阪デモクラシー会館で催される。
6月30日
大正日日新聞の田中正雄が来て、妹が田中漫平と間違えた。
7月2日
8月の研究作品は「トンネル」と決める。ケン一、ヒゲオヤジ、ハム・エッグ、みいちゃん。
7月6日
朝、中村氏来て「キングコング」20部と稿料1万1400円置いて帰る。悪いなあ。
7月7日
有文堂で武田氏と会い、2時から7時まで大阪駅前でパンを食いつつボロクソに「ミスターA太郎」の批評をいいて分かれる。坂野氏に「モモーン山の嵐」渡す。苦い顔。道で種瓜平に出会った。
7月9日
阪急が大阪まで往復20円。
7月18日
「トンネル」にとりかかる。
7月22日
紙を探しに大阪へ。梅田シネマで「ガス灯」観る。武田氏の家。「マボロシ城」を見せてくれるが「ロストワールド」のマネ。
7月24日
朝日会館のマンガ大会みるも、実に稚粗雑。とくに狸映画はひどい。有文堂、坂野氏がツンとしてるからこちらもツン。
8月5日
歌劇事務所へ「宝塚グラフ」「歌劇」原稿持っていく。東京行きが具体化し、晩、オヤジはチッキにするトランクを詰めてくれた。
8月6日
朝、弘文堂よりたのまれた原稿をかく。大阪へ母同伴で行ったら、肝心の時刻の汽車がなく、とうとう闇切符を買わされた。東京行くまでに1000円をフイに。22時34分発の車に楽に座る。寿司などを食ってるうちに京都を過ぎて、やがて寝てしまった。
8月7日
夜中目が覚めると名古屋。雨がどうどう降っている。浜松で夜が明けたが富士を見ることなど思いもよらぬ。太平洋側はひどい土用波。パンとハムを食う。
東京着10時30分。山手線で新宿へ。新宿すっかり変わった。上北沢着11時30分。祖父母に迎えられ、無事、安着。恐ろしい天気。豆台風。
8月9日
朝、音羽の講談社に依った。ビルに驚く。「コドモクラブ」の落合氏に会う。そして、どうもここは仕事にならぬと思ったので、新関健之介の家に行く。赤羽という被服廠のある近くまで東北線で言って一日中探したが、ついに見つかってみると、一月前に引っ越した後だったので気絶しそうになった。上野桜木町だというので、日が暮れるのも構わず、そこへ訪ねて行った。運よく会うことができていろいろ東京の事情など夜遅くまで話し込んだ。
8月10日
正男叔父と神田で降りて、神田、日本橋、京橋、銀座、有楽町と歩いて行った。音羽あたりと違って、中央区の復興ぶりは目覚ましいものであった。料理やでトンカツごちそうになって、それから日比谷でジャン・ギャバンの「どん底」を見た。
8月11日
新関健之介氏、島田啓三、片寄貢の家に行く。
8月12日
下高井戸の三軒茶屋にある芦田漫画映画研究所へ行く。ここでは「バグダッドの盗賊」という長編ものをつくっていた。入所希望するも断られる。それから浅草の中村書店と神田の日配へ行った。神田で35円でついにリストの「ハンガリア狂想曲6番」を掘り出した。
8月14日
祖母とひさしぶりで出かけ、日比谷の帝劇で新生新派の「四谷怪談」を観たが、舞台が終戦後の話なので、幽霊の出るところに扇風機が置いていたり、闇屋が出てきたりして怪談らしくない。
8月15日
漫画家の懇親会。11時に新橋の蔵前会館。宮尾しげお、坂本牙城、太田耕士、小川武、秋玲二、小川哲男、片寄貢。関西代表として、「新漫画ロマン派」の宣伝をした。
8月横井福次郎と会うエピソード(国松99頁)
10月初の単行本「怪人コロンコ博士」同盟出版より刊行
11月1日
学友座第四回公演(毎日会館)「天佑丸」(作:ハイエルマンス)にジモンという名の酔払いの船大工の役で出演(〜11月3日)。

11月4日
医学専門部懇親隠し芸大会(YMCA)でピアノ独奏し、個人1等となる。

どっかで芝居の宣伝をしに「典ちゃんいますか」と竹田典子を訪ねる(実像78頁)

11月27日・28日
関西新劇団合同公演(朝日会館)「罪と罰」にペンキ職人役(おそらくニコライの相方)で出演(この合同公演を最後に学友座メンバーは芝居から身を引く)。竹田典子観に行く。

1948年(昭和23年)20歳
2月
「地底国の怪人」(不二書房)刊行。
5月
旧川西航空機宝塚製作所の跡地に競馬場を設置したいという申し入れ。猛反対(市史473頁)
10月
「吸血魔団」(東光堂)刊行
12月
ロストワールド
1949年(昭和24年)21歳
3月25日「せむしの仔馬」を母と観に行く。
この時、好きな方を選びなさいと言われる。

7月
ファウスト(不二書房)
9月
メトロポリス(育英出版)
1950年(昭和25年)22歳
1月1日
夏、偶然に学童社を訪問して、加藤謙一と出会い、「ジャングル大帝」を『漫画少年』に連載することになる。

1951年(昭和26年)23歳
1月10日
「来るべき世界」
1月25日
島田啓三を中心に、馬場のぼる、太田じろう、古沢日出夫、山根一二三、福井英一、入江しげる、根岸こみちらで、 東京児童漫画会(児漫長屋)が結成され、入会。

2月新日本放送のアナウンサー募集試験に応募。見事合格。入社したが、2日勤務して終わり。

3月15日宝塚町成立。

3月24日
大阪大学医学専門部卒業(一年留年)。
インターンで一年間大阪大学付属病院に勤める。

4月
アトム大使
5月
バンビ始まる。スバル座
ラジオドラマ化(河内82頁)

8月星組虞美人を坂口安吾が観る(河内178頁)

1952年(昭和27年)24歳
春休み、藤子不二雄が二人で宝塚に来て「ベン・ハー」を見せる。
夏、このあたりで、部屋にオオムラサキが飛び込んできて浩と捕る(親友77頁)。
石原氏、そごう百貨店と何やかんや(石原351頁)
7月16日
医師国家試験にパス。仕事の場を東京に移し、国立音大の美奈子とともに新宿区四谷の八百屋の二階に下宿する。

1962年(昭和37年)5月4日 田中圭一生まれる。


ラジオドラマ「33‐52~手塚治虫の宝塚~」
登場人物候補リスト(年代順)

1.手塚治虫(0~24)
この物語の主人公。5歳から24歳までを宝塚で過ごす。昭和3年(1928)11月3日生まれ。

2.ナレーター
物語の進行役。

3.手塚良庵(27)
治虫の先祖。文政9(1826)生まれ。蘭学を学ぶため、緒方洪庵の開いた「適塾」に安政二年(1855)に入門する。

4.福沢諭吉(22)
天保3年1835生まれ。「適塾」の塾頭。手塚良庵の兄弟子。手塚良庵の髪を切ろうとする。

5.松岡勇記(20)
「適塾」塾生。天保5年(1937)生まれ。福沢諭吉と手塚良庵の間に割って入る。

6.手塚太郎(66~70)
治虫の祖父。良庵の息子。文久二年(1862)江戸生まれ。元裁判官。大正12年、60歳で退職し、宝塚に家を建てて住む。四女の愛子、次男の昇と四人暮らし。関大の創立者の一人。昭和7年11月19日、腎肺炎で逝去。

7.手塚満寿(?)
手塚の祖母。

8.手塚粲(27~51)
治虫の父。明治33年(1900)生まれ。女三人に続く長男。長崎中学から中央大学卒業後、大正13年住友倉庫に入社。その後、住友合資会社会計課、住友伸銅鋼菅経理課、経理部調査課、資材課に勤務。淀屋橋の社員。カメラが趣味。漫画のコレクター。ラブレターに漫画を書いて送っていた。動員され、昭和21年1月に帰ってくる。

9.手塚文子(19~43)
治虫の母。東京育ち。兄と弟がいる。陸軍中将服部英男と滝子の娘。粲の八歳年下。岡本太郎と近所付き合い。


10.手塚浩(0~22)
治虫の弟。昭和5年(1930)生まれ。一緒に昆虫採集。

11.手塚美奈子(0~20)
治虫の妹。昭和7年(1932)生まれ。ヒョウタンツギ。お兄様。ちい兄さま。と呼ぶ。

12.荻野綾子(10)
治虫たちの幼馴染。右隣に住んでいた。宝塚小学校。昭和6年(1931)生まれ。誕生会に呼ばれる。お兄様と呼ぶと、他の男子からからかわれる。プラネタリウムに行く。家のプラネタリウムにも同席。昭和17年、転出。

13.岡田悦子(幼少期)
幼少期、手塚治虫が2歳から4歳まで過ごした南桜塚の萩の寺の近くで住む。治虫とは遠い親戚同士で、宝塚の家に遊びに行ったことも。後に手塚夫人となる。

14.天津乙女(28~)
1905年生まれ。治虫よりも13歳年上。1918年入団。花詩集に出演。左隣の家。昭和10年、宝塚歌劇場火事、大劇場再開記念公演で「寶三番叟」に出演。昭和17年東京で父と歌舞伎を観ていたら東京初空襲に遭う。戦後大劇場返還運動の署名を米軍に渡しに行く。

15.雲野かよ子(25~)
天津乙女の妹

16.園井恵子(20~)
家のならびのはずれに住む。広島の原爆で爆死。

17.越路吹雪(16~)
町内に住む。

18.南悠子(18~)
タカラジェンヌ。治虫の初恋の人。初舞台公演演目は『正行出陣』である。

19.石畑真一(?)
池田附属小学校の校長。

20.尾辺晴朗先生
一年西組の担任。話し方指導の専門。ポイトコナのお話しをさせた。

21.乾秀雄(25~)
三年生の二学期から治虫の担任となる。能勢の地主の息子。四条畷中学を卒業後、池田師範にすすみ、音楽を専攻。地元の小学校でしばらく勤めたあと、石畑校長の推薦で付属小学校に呼ばれた。綴り方に力を入れ、治虫の才能を認める。

22.宮川文夫先生(?)
理科の先生。乾先生が来るまで三年西組の担任だった。
その他、田代百蔵、弓場貞次(東組担任、体育教師)、馬場潔(訓導)、河合正吾(主事)、渕岡篤(修身)、中尾明磨(乾の前任の綴り方の先生)、竹森実蔵(50過ぎの音楽担当)多田俊彦(図工)という先生たちがいた。

23.石原実(7~12)
池附小学校の同級生。治虫の親友。時計店の息子。機械が好き。プラネタリウムに連れていく。昆虫の師匠。秘密結社「コンチス・スペーリングス・ペーパーズ商会」のリーダー。コードネームはホップ・ゴブロスキー。小学校の近くに家がある。
 父がプラネタリウムに連れてく。たいくつだったから一、二回しか行ってない(本人談)。
 4年生、土曜日、歌劇ちょんぼ、お弁当なし。先生からあだ名禁止。手塚君。(本人談)

24.大森俊祐(7-12)
小学校の同級生。宝塚に住んでいるので一緒に通う。四年生の時に「木下君」という作文を書く。「命名する!」とオサムシの名付け親。月見山。

25.春田有文(7~12 18~22)
小学校の同級生。三年生の図画の時間に男のモデルとなる。体格大きく腕力も強い。父が薩摩出身。薩摩っぽい。消しゴムを食べる癖がある。浪花節のモノマネやオットセイの鳴き声のモノマネが得意。しかし音痴。
阪大医専でまた治虫と一緒になる。一緒にベートーベンの第九の演奏会に行く。第四楽章のバリトンの謡いだしについて「関西でやる時は関西弁の方がええのに」と言って、関西弁の替え歌を作った。「なあ、あんた、これやのうて余計ええ調子のおもろい歌うたいまひょうや、歌いまひょか」
家で捕まえたコウモリを学校に持ってきて女の子の前に差し出す。乾先生が「コウモリは歯に毒を持っているので、かまれたら危険だからやめなさい」と注意する。カブトガニを持ってくる。

26・石畑三郎(7~12)
池附の同級生。石畑校長の三男。三年生の丹下左膳の時、家でミーティングをする。

27.中島豊(7~12)
小学校の同級生。四年生の茶話会で、治虫がエンタツ・アチャコの「早慶戦」漫才をやった相手。出征兵士の家庭。風の夜(空を越えて198頁)

28.大橋襄(のぼる)(7‐12)
クラス一の博識。ガリ版刷りの「世界科学大系共同製作文庫」を作ってクラスに配る。そこで開発中の原子爆弾について記述。治虫は昆虫のことを書いている。

29.渡辺衡夫(ひでお)(7-12)
クラス一背が高い。運動は苦手。天然で、五年生の時に「高天原はどこにありますか?」と聞いてしまう。おかずに持って来たゆで卵が、ひよこになりかけていて悲鳴を上げる。

30.川島典秋(7‐12)
町立池田小学校のガキ大将がからんできた時、守ってくれる野球少年。

31.浅井一平(10~12)
池附に合格していながら、病気のため、やむなく町立に通い、5年生から編入。そのせいで町立の悪ガキたちに「裏切り者」とからまれる。
北野中学の受験で落ちてしまう。ケンカ止めてたら北野の先生に見られた(平賀さん談)。

32.泉谷廸(7~16)
小学校・中学校の同級生。

33.木下平八郎(7‐12)
アセチレン・ランプのモデル。後頭部にへこみがある。

34.平井英二(7-12)
同級生。のちに歯ブラシ製造業になり、アトムを使わないかと治虫に言われる。

35.北村汎(ひろし)(7‐15)
小学校から北野中学校まで同じ。のち、東大から外務省、大使になった。はつはりの発端。

36.村主和子(7~12)
小学校の同級生。中山寺の塔頭総寺院の娘。活発で行動的。身体が大きく、治虫を泣かしたことも。手塚弱虫だ、と言った。石原隊長の秘密結社のメンバーでもある。
コウモリ見たさに春田君の家に行く。
 治虫の家にも何度も遊びに行く。手作りドーナツと紅茶。
秘密結社の件で乾先生に大目玉を食らう。

37.竹田典子(7-22)
小学校の同級生。三人姉妹。入学式の日、教室まで手を繋いで帰る。男の子と手をつなぐのが初めて。阪大附属医専時代、家に「典ちゃんいますか」と訪ねて来て、一二度会う。芝居の宣伝に。ドストエフスキーの罪と罰。ペンキ職人の役を見ている。
 南部正太郎さんから手紙の返事が来てね。と嬉しそうに阪急電車で話す。その後、今度、南部正太郎らとマンガのグループを作ってね、と定期入れから名刺を手渡される。「新マンガロマン派 スリーマンガクラブ 手塚治虫」

38.児玉道子(7~12)
小学校の同級生。三年生の図画の時間に女のモデルとなる。治虫がそっくりに描く。五年生の一学期、学級の選挙で、手塚級長になったとき、副級長。誘われて家に遊びに行くことも。手塚と乾先生と三人で、出征兵士の家庭を慰問するために中島豊氏の家を訪問。

39.安藤照(7‐12)
同級生。川合さんと一緒に、はつはりの時「っさ、てっちゃん、頭おみせ」という。

40.長尾煦子(あつこ)(7-12)
同級生。後ろの席。

41.金岡恵美子(7-12)
同級生。四百坪の土地にバラ栽培をしていて、教室にかざる花を持ってきていた。前の方の席なので治虫とはよく隣の席になった。「卵焼きなんか持ってくるな」と言われる。「なんで持ってきたらアカンの、食べるのは私やんか。ほっといて」
パラパラ漫画もよく見せてもらった。書いてもらえばよかった。村主さんと一緒に宝塚の家に遊びに行き、蝉取りをする。ブランコもする。
昼休み中に石原君の家に遊びに行き、鐘がなると同時に教室に戻るという遊びもしていた。帰還に失敗して大目玉を食らったことも。
縮れ毛なのでお互いに「なんでこんな髪の毛なんやろ」と慰め合った。
秘密結社のメンバーでもある。

42.堀口宨子(7-12)
同級生。能勢口、一年生の時、蛍の絵を描いた時、治虫は富士山の絵。図画の尾辺先生が褒める。母も「手塚さんはきっと絵描きさんになる」と言う。一年生の時、家に遊びに行く。ブランコ。地球儀を回しながら「日本の国ってちっぽけだよ」と教えてくれた。のらくろを借りる。
四年生の時、音楽の授業の参観日、四拍子と三拍子、治虫が四拍子を真四角を描いてやって、みんなが大笑い。手塚の母、文子も。
ピアノを習っていて、滝廉太郎の先輩の東くめ先生(1877‐1969)がはとぽっぽを教えてくれる。鳩が好きだった治虫は、勘違いで「会わせてくれ」とせがむ。先生は治虫の前ではとぽっぽを歌う。

43.東條登美子(10~12)
5年生の時転入。隣の席。「この線から出たらいかん」と言われる。パラパラ漫画を見せてもらう。女学校に行くために入った(平賀さん)。

44.神藤寿美子(7-12)
同級生。パラパラ漫画を書いてもらう。

45.井爪久美子(10-22)
5年生から転入。花屋敷在住。6年生の秋、駅で治虫ら数人の男子が待ち伏せし「家に遊びに行っていいか?」。次の日曜日、男子が何人もきて、山盛りのお菓子があっという間になくなる。治虫はオルガンを弾く。
 医専時代、学友座の芝居を誘われて毎日会館に観に行く。演目は「白衣の人々」。

46.平賀翠(7-12) 
同級生。二年生の時、クレヨンで描いた絵の中で「この中に好きなのがあったらあげるわ。」と言われ箕面の滝に紅葉を描いた絵をもらうが、6年生のある日「前にあげた箕面の滝の絵を返して」と言われ、しぶしぶ返す。その代わり、お父さんが撮った写真を工場の写真10枚くれる。妹が、妹の美奈子と附属小学校で同級。てづかみ。シャム猫もらって。
 遊びに見に行ったろ、と家の
 平賀の父 住友本社
三年生箕面公園
て づかさん 
五年生は三階。五年生。クラスで神風を見に行く。桑の実真っ赤。食べる。騒ぐ。

47.福貴正三(?)
宝塚植物園の中にある昆虫館にいた学芸員。治虫に昆虫のことをいろいろ教えてくれた。
石原と二人で行く。蝶々、甲虫。

48.林久男(12~16)
北野中学時代の同級生。昭和16年中一で一年三組同じクラス。吹田在住。6組300人。治虫と二人とも背が低く背が低いクラスに入る。登山班(クラブ)の新入生獲得行事の生駒山登山に参加。この時、治虫は虫取り網を持って行っていいですか?と聞く。ガガンボを珍しいぞ、と持っていくが「足が折れるから標本にならない」と言われる。農園実習の時も、虫を捕まえ毒瓶に入れていく。夏休みの最初の日曜日、手塚の家に遊びに行く。その前日阪急百貨店の二階の昆虫売り場で、昆虫採集道具などを買う。家でオサムシの標本を見せてもらう。蝶道を教えてもらったり、宝塚、箕面、能勢などいろいろな所に一緒に昆虫採集に行く。
今中宏と一緒に動物同好会を作り「動物の世界」という同人誌を創る。その後今中が抜け、治虫と二人で「昆虫の世界」を創る。マンガも載る。
勤労動員では最初塚本の三ツ星鉄工所、その後三国の石産精工に。ただ、箕面の昆虫採集にはいく。

49.今中宏(12-16)
北野中学の同級生。鶴屋八幡の御曹司。一緒に動物の世界という同人をやる。伊丹在住。ヒゲオヤジのモデルとなったおじいさんがいる。

50.上田吉孝(12~16)
北野中学の同級生。最初に手塚家に遊びに行き「ともかく手塚の家はでっかいぞ。門から玄関まで電車が走っていた」と吹聴。

51.岡原進(12~16)
北野中学の同級生。小学4年生から水彩画を描いていた。同じクラスにはならなかったが美術部で一緒だった。三年生の時自習となったらプールを掘らされた。

52.広瀬禎夫(12~16)
北野中学の同級生。一緒に19年夏休み、仁川の一里山健民修練所に行く。合宿生の寝顔のスケッチをする治虫を見る。

53.藤澤友吉郎(15~16)
中学同期。三年、四年と手塚と一緒。4年一組、大阪石綿で一緒に勤労動員。

54.金津博直(12~16)
中学同期。十三在住。一年6組。4年一組で治虫と同じクラス。大阪石綿。
のち教師になり、医専のインターンで保健所に来た手塚と再会。

55.小山内
中学同期。小山内実という弟がいる。

56.長坂五郎(?)
北野中学校長。オットセイというあだ名。落語で受からせた。治虫には、小学校で作った同人誌の話を聞く。

57.田村清三郎(?)
北野中学で三年の時から代わった校長。通称ギョロ。学校が軍国主義的に変わる。

58.岡島吉郎先生(?)
美術部顧問。一年三組担任。通称亀さん。治虫に理解を示す。厳しい先生だった。

59.大田英雄先生(?)
4年の担任だったが、徴兵で戦争に。

60.小林二郎先生
大阪石綿を担当する先生。通称チャカ。

61.松岡秀矩(15)
大阪石綿で一緒だった。通称ダル。ヒゲオヤジに似ている。

62.田畑(?)
軍事教練の教師。通称マントク。自分の似顔絵を描いた治虫を職員室に連れていき、「切る」と刀を抜こうとしたが、抜けない刀だった。

63.亀尾英四郎(50)
終戦の時、闇市で買わずに死んだ。

64.長谷淑子(20)
近所の女性。花里いさ子の姪。割と大柄。昭和20年10月から昭和21年3月まで毎日新聞秘書課に勤務。治虫のマンガを程野繁夫に見せる。

65.平田外喜二郎(?)
少国民新聞の編集長。昭和三年には、松竹歌劇団で「新聞時代」というレビューを作った。

66.程野繁夫(?)
平田の部下。マアちゃんの日記帳を載せる。「マンガ家になるつもりですか?」「いえ小児科医になるつもりです」「そりゃあいい、お薬袋にマンガを描けば人気になりますよ」

67.本田一二(18)
医専の一年先輩。父親の本田親男は大阪毎日新聞の代表兼編集局長。昭和20年12月、同級生に治虫を紹介される。「ぼくはマンガが大好きで、これだけ書きました。本田さんの父上は大毎のえらいさんだと聞きまして、ぜひマンガを診てもらって、新聞に載せてもらいたいのです」風呂敷を渡す。「気持ちはわかるが、息子が親父の仕事にとやかく言うのはまずいなぁ。そういうのは公私混同になるやろ。君が直接持ってったらどうや」「そうします」

68.本田親男(?)
毎日新聞社代表。「阪大にマンガのうまい学生がおるな。大人の新聞には無理なんで、子ども新聞にまわしといた。平田のあんちゃんに渡しといたから何とかしてくれるかも知れん」

69.ジョー(20)
黒人のGI。手塚が医専時代、授業でも使われていた大阪土佐堀のYMCAに置いてあったモーツァルトのトルコ行進曲を弾いていたら、入って来て、その後フィガロの結婚の「もう飛ぶまいぞ蝶々」のアリアを歌う。仲良くなって、似顔絵を描いてあげる。

70.大坂ときお
漫画家。関西マンガマンクラブを結成。

71.酒井七馬
大御所漫画家。関西マンガクラブ顧問。手塚に持ち掛けて一緒に新宝島を創る。

72.南部正太郎
関西の漫画家。「ヤネウラ3ちゃん」で大人気に。いち早く上京する。「中央の壁は厚かった」

73.新関健之助
漫画家。昭和22年治虫が東京の様子を見に行った時、歩いて尋ねる。赤羽から罹災して上野に引っ越していた。「手塚君、もっとデッサンの仕事をしたまえ」(手塚エッセイ集)

74.島田啓三
漫画家。新関の後、治虫が桜台の自宅に会いに行った。「変わった描き方をする。あなた一人ならいいが、誰もがこんな描き方をしたらえらいことになる。邪道」

75.岩谷時子
近所に住む女性。越路吹雪のおつきの人。歌劇の出版部に勤めていた。文子とは仲良し。治虫を歌劇に紹介する。

76.原由子
学友座の女性代表。昭和21年6月学友座結成。昭和21年10月こけら落とし「生命の冠」。治虫は老人の役。昭和22年5月第二回公演「白衣の人々」。毎日会館。この時、芝居のストーリーをマンガで描いたものをロビーに張り出す。同年暮れ新劇合同公演「罪と罰」

77.桂春団治
落語家。清荒神在住。昭和21年暮れ頃、治虫の家を訪ね、落語と芝居のポスターを依頼。「桂春団治の芝居と落語」

78.横井福次郎
漫画家。ふしぎな国のプッチャーの作者。治虫の憧れだった。東京在住だが、明石に疎開している家族に会いに来ている時、治虫と会う。「こどもだまし。ほんとの漫画はピストルをぶっ放すばかりじゃない。世の中の風刺やパロディつまり痛烈な皮肉こそ必要なんです。あなたは力のある方だ。東京で本格的にマンガの勉強をしてみたら」

79.田中正雄
関西の漫画仲間。東京を目指すと励まし合う。

80.加藤謙一
1886年生まれ。学童社を作って「漫画少年」を出版。公職追放されているので内緒で。
昭和25年春、治虫が学童社を訪れる。石田英助のインタビューをするために上京するが、新婚旅行のため不在。その時、ジャングル大帝を読み「うちで載せましょう」となる。

81.加藤美紗子(治虫と同い年)
謙一の長女。一緒に白雪姫やバンビを観に行く。デートのお誘いかと思いきや、映画をスケッチするのを懐中電灯で照らす役目だけ。

82.加藤丈男
加藤の四男。小学校4年。

83.馬場のぼる
漫画家。東京児童漫画会、通称児漫長屋のメンバー。顧問は島田啓三。

84.福井英一
漫画家。児漫長屋メンバー。治虫のライバル。「金儲けしやがって」のケンカをする。

85.看護師
手塚のアシスタントをする。昭和26年3月卒業。その後インターン。27年国家資格取得。

86.関根教授
講義がたいくつ。多分この人の授業で、インクをこぼす。

87.安澄先生
解剖学の先生
医者になるより、漫画家になりたまえ。医者というのは君の考えるほど小さなことではないのだ。今の時代、戦争で親をなくした孤児たちが大勢いる。特に君のように子供にものを描いているのなら、戦災孤児たちをはげまし、精神的な糧となるものを描くことは広い意味で医療となるのではないか。それは君にしかできないことだ。

88.上野龍雄
医専の同級生(廃墟62頁)

89・工藤義雄
医専の同級生(漫画の宇宙145頁)
西北から通学

90.今井兄弟
医専の同級生。

91.服部英男
文子の父。陸軍中将。

92.服部タキ
文子の母。

93.服部正男
文子の弟。

94.宮前さん
手塚の編集者。ジャングル大帝の原稿を取りに病院に行き、白衣の治虫に会う。

95.安孫子素雄
漫画家。藤本弘とともに昭和27年3月21日宝塚を訪れ、ベン・ハーを見せる。

96.藤本弘
漫画家。同上。

その他、お手伝いさんのとめ、町の人、書店員、読者の少年少女、編集者などなど。



<参考文献>

手塚治虫「僕はマンガ家」「昆虫つれづれ草」「ぼくのマンガ人生」「ボクのまんが記」「とっておきの話」「新宝島」「手塚治虫エッセイ集成 わが思い出の記」「手塚治虫エッセイ集成 ルーツと音楽」「鉄腕アトムプロローグ集成」・中野晴行「手塚治虫のタカラヅカ」「謎のマンガ家 酒井七馬伝」手塚悦子「夫・手塚治虫とともに」・小野耕世「手塚治虫 マンガの宇宙へ旅立つ」・竹内オサム「手塚治虫 アーチストになるな」・泉谷迪「手塚治虫少年の実像」・伴俊男「手塚治虫物語」・河内厚郎「手塚治虫のふるさと宝塚」・今川清史「空を越えて 手塚治虫伝」・加藤丈夫「漫画少年物語」・田浦紀子・高坂史章「親友が語る 手塚治虫の少年時代」・桜井哲夫「廃墟の残像」・石原実「石原時計店物語」ほか


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?