ラーメン凪 創業記 第1章:高校卒業~波乱の一蘭時代
はじめに
はじめまして!
株式会社凪スピリッツことラーメン凪 代表の生田悟志です。
(本投稿は井戸実さんメルマガに寄稿した内容を編集&追記したものです)
自己紹介&会社説明をさせて頂きます。
1977年7月30日 福岡県北九州市生まれ 43歳(2021年現在)
学生時代はソフトテニスに明け暮れる。刑事ドラマ「トミーとマツ」に憧れ警察官を目指し専門学校へ。
夢破れ、株式会社一蘭に就職。
27歳まで5店舗のエリアマネージャーを歴任、関東営業担当に。
2004年8月、独立し飲食業界へ。
新宿・ゴールデン街で『火曜日限定 ラーメンバー凪』を運営するかたわら、ラーメン店、製麺所、『西麻布 五行』などでアルバイトを経験。
熊谷正寿の著書「一冊の手帳で夢は必ずかなう」に感銘を受け、将来の地図を作成。
ニューヨーク旅行で出会った様々な民族の活気ある姿に、日本人としてのアイデンティティを持った飲食店の開業を決意。
2006年6月、渋谷本店を創業。
2021年現在、国内直営17軒、及び海外36軒(香港、上海、シンガポール、台湾、フィリピン、2018年念願のアメリカ進出を果たす)をライセンス展開。
凪グループでは海外含めて50軒。
国内は「すごい煮干ラーメン」、海外は「ラーメン凪豚王」としてラーメン事業を展開しています。
今回はここに至るまでの経緯と少しだけこれから的なお話ができればと思っていますが、こうやって今を迎えれるの、会社の軸として、サポートしてもらっている経営幹部や部下達、そして家族や先輩、友人のおかげとしかいいようがありません。本当に感謝です。
人に恵まれたこと改めて感じています。周りからよく言われるがが、ものすごく無駄や遠回りをして何とかたどり着くタイプだそうです。なので名だたるスマートな経営者もいますが、僕のように「面白い」をキーワードに突き抜けた人もちょと珍しいというかアホというか。。。
冒頭の自己紹介でもありましたが、高校卒業して、警察官を目指すところから僕の社会人生活が始まります。
高校卒業~警察官を目指すも…
高校生3年まで部活のソフトテニスに明け暮れていました。
朝から晩までテニス。テニスといっても今をときめく黄色いボールでウインブルドンとか世界4大大会とかでないほうのやわらかいボールのテニスでして、日本では競技人口が意外に多いというものを中学校からやっていました。
きっかけは部活で坊主にしないくていいという不順な動機です。
それを始めてのめり込みました。県大会上位にあがる腕前はありましたが、全国レベルにいけないところが今の自分とかぶります笑
高校3年の夏に部活が終わり、そこで初めて将来なにしようか?と考えました。自分でいうものあれですが、進学や就職ともにまったく考えていなかったのでほんとよく生きてこれたと思います。
いまだといろんな企業や将来のビジョンとかを考えたり、調べたりなどできますが、当時の僕はそのかけらもありませんでした。
結果、その冬に友達が公務員になるために新聞奨学生をして学費を稼ぎなら福岡の専門学校に行くというので、それなら親に負担がかからないからないし、田舎から出れるっ!と安易に流されて、幼少のころにみたドラマの主人公を目標に福岡へ行きました。このころはまったく飲食をやるとか、社長になるとか微塵も持っていませんでしたね。。
福岡に出て案の定、勉強どころか「飲み」と「遊び」を満喫してあっという間に時間が過ぎていきます。新聞配達も早朝3時からはじまり、朝刊、夕刊、そして集金とこなしていました。今思えばほんとこれよくできた仕組みだなーと。
奨学生として新聞寮に囲い込んですごい安月給で働かせる。
僕がやったのは日経新聞(企業への配達中心)だったのでまだよかったですが、これが読売とか朝日新聞とかだと食品や住宅の折込チラシの量が半端ないなど同じ新聞奨学生でもすごい差がある面白い職場でした。仕事も慣れてくるとすぐに調子にのり、朝方まで遊んで、オールで朝刊を配り、そのまま寝て目覚めたら夜の20時とかで寝ぼけて寮の飯を食べようと階段下りて、目の前の夕刊ひとやま残ったものをみて慌てて配りにいくなど当時から完全にアホ丸出しな仕事ぶりでした。
公務員を目指していましたが、一向に試験にうかりません。そうしているうちに20歳になりました。あと1年がんばってだめならもうあきらめようと決めて一度実家に戻りました。
実家に帰ってアルバイトをしようと見つけたのが「一蘭」でした。
この「一蘭」でのアルバイトが今日に繋がって行く事となるとはこの時は予想もつきませんでした。
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一蘭時代
「一蘭」は当時はまだ7~8軒しかありませんでしたが、福岡といえば一風堂と一蘭がすごく有名になっていました。
仕事ができればよかったので、これまた不順な動機でオープニングメンバーならめんどくさい先輩とかいないし、みな新人だからかわいいこでもみつけよう!っとバイトで入社しました。
昼はラーメン屋で仕事、夜は勉強とこの一年はほんとよくやりきりました。もっと早くやっとけよ。。と今おもうのですが、やはりポンコツはポンコツですね。。。
結果3年間チャレンジした公務員も24倍という倍率もさることならが、1次試験はパス、2次試験であっけなく落とされるというサイクルを繰り返しあきらめました。今思えば2次試験で心理テストとかあるんですが、完全に正しい判断ができるんですね。
まったく警察官の仕事は自分に向いているように思いません。受からなくてよかった!と今は思えます。
不順な動機で初めた一蘭でしたが、これが運命の仕事となりました。
全く飲食に興味がなかったので、ただ働いていたという感じですが、ものすごく勢いというか売れていました。
当時はほかのお店の売上げは分からなかったのでそれが普通だと思いました。もう時効?だと思うので数字でいいますが、僕が働いていたお店は15坪ぐらいのお店でした。18席とそこまで大きくはないものの1日に500杯~800杯、月商1200万~1500万。売れている大宰府店とかは1000杯を越えて月商2500万を超えていました。
一蘭しか知らなかったので、売れているとはいえ、坪効率からそれが異常だとはまったく思わず、アルバイトリーダーから人不足で小倉店の店長となり日々人件費管理とお店のQSCを上げることを徹底して取り組みました。この
一蘭での原体験が今の凪のベースにすごくなっています。
一蘭という会社はそれほど僕に衝撃を与えてくれました。
今の一蘭もインバウンドを抑えつつ業績を伸ばしまくっています。
もっともすごいのは創業時500円程度のラーメンを1000円近くまで値を上げて売り続けていることです。どんだけ粗利がいいのかと経営数値から本当にすごいなーと思えます。
一蘭での教訓「気を使え」
一蘭ではさまざまな仕事をしながら、会社のいろいろな面も学ばせて頂きました。
仕事効率、マネジメント、経営戦略、広報、ブランディング、チェーンオペレーション。
9年ほど在籍しましたが、その間に東京展開などもあり、会社が大きく変革した時期に入れてことは本当に幸運でした。
また強烈な社長のもとご指導頂いた経験も忘れがたいです。過去ここまで経営者にあったことがありません。どれだけすごかったか。。。
教わったことで一番は「気を使え」でした。
他にもいろいろあるのですが、今ならわかりますが、当時から鬼の「気配り」ができない社員はことごとく居なくなりました。それが社内教育だったんです。
飲み会では「面白い気のきいいた話」のネタを10個ほど用意して参加しなくてはなりません。ただの話ではなく、そこに「ビジネス」的な視点も加えた会話が原則でした。
まじめな僕は暇があればビジネス書を読みまくりました。そして読んだ本を片っ端からメモしてノートに写しなにかあれば社長に披露するなどして、完全に社長へのアピールをしまくって気になってもらう存在になっていきました。上司も面白い人が多かったです。
そんな会社だったので、仕事ができる人は徐々に居なくなり、いかに社長に気に入られるか?で評価される風潮が出来上がり、ある意味価値観がそろっていきましたね。
ここで学んだのは仕事ができるひとが居なくなっても会社が回るのだという事実でした。僕は実務のレベルもつけたかったので社内でのポジションには相当こだわり、常にだれかれをライバルにしていました。目の前の目標がないとがんばらない性格だったので。そんな社内でしたが、現場を変えるためならなんでもやりました。
エアコン事件
店長をしていた小倉店ではエアコンの効きが本当に悪く、夏場はもう汗だくでアルバイトさんからもクレーム続出。何度も上司にエアコン増設を提案しましたが、聞き入れてもらえず。一時間ごとの温度を記録して毎週本社に送り直訴をしましたが、そでもまったく変わりません。普通の店長ならここまではやりますよね。
僕は執念深いのであの手この手を尽くしました。
ある日、社長が店舗に来ると情報を極秘にキャッチ(来ることは事前に知らされてない状態)して店舗の空調を全て止めました。換気扇も。
そして火力を最大にして、もう完全蒸し風呂状態。客席は40度近くなっていたと思います。その状態を作って社長が来る直前にエアコンスイッチを入れて待ちました。
そして社長が入店してラーメンを提供。
ご存知だとはおもいますが、仕切り壁と暖簾が目の前にあり、基本誰にも合わずにラーメンが食べれるというコンセプト。社長は僕が来ることを知っているとは思っていないので、そのままラーメンを召し上がって帰りました。その日の午後、2台の外付けスポットクーラーが導入。
聞けば僕の上司のところに社長の怒りの電話があったそうです。
「店舗が暑い!すぐになんとかしろ!」
僕が生まれた昭和52年は蛇年なので執念深さは人一倍なのかもしれません笑そんなエピソードも一蘭時代には懐かしい思い出です。
マネジメントも勉強しましたが、チェーンオペレーションも勉強になりました。ラーメンの要の基だしと秘伝のたれ、麺、スープは基本別々の人が作っていて社内に全部作れる人は皆無でした。それは今の凪でも近い形でやっています。
こうすることで味を盗まれることを防いでいました。会社にする以上社員の雇用を守ることは社長の務めだと体験されてもらいました。僕が居たときは関東出店もあり、人とのつながりもあり、本来見れない部分をこっそりみさせて頂いたのは今も秘密です(笑
社会人時代はほんと人脈とか考えずに社内でいかに人間関係を作って楽しくがんばるしかあたまにありません。
結果いろいろなご縁で勉強できましたが、当時はまったく独立しようとか考えもしませんでした。
つづく(毎週火曜更新予定!)