ラーメン凪 創業記 第14章:契約不可⁉いざ大分へ!
ラーメン凪 代表 生田悟志が高校卒業から凪創業に至るまでの波乱万丈な創業記!?前回まではこちらから↓ 読んだ人、いいね押してね!!
凪 3号店、新宿ゴールデン街店。
いまでこそ連日沢山のお客様に来ていただくお店になってはいますが、ここにくるまでには長い道のりがありました。話をわかりやすくする為にもゴールデン街の成り行きに特化してお話しします。
2008年のオープン当初は客数一桁のゴールデン街店。
そもそも物件取得からひと悶着ありました。
契約不可!?
以前のバーのマスターからお店を譲り受ける時に、物件のオーナーさんではなく、その友人が管理してるから話をしてくれと言われました。
で、直接会ってみると「ゴールデン街でラーメンはやってはいけない!!」と言われて仰天。。。。
話を聞くと、以前近隣で火災があり、特に近年は老朽化もすごいので(今はもっとすごい)ラーメン屋など開かれて火事にでもなったら責任が取れないから貸すことはできないと言われました。
何とか誤魔化してでもオープンしてしようと思い、
「バーでやります!」とか計画書を出しましたが、そもそも以前に大行列をつくった店であることはバレており無駄でした。。
これでは開店できないと諦めそうになりましたが、契約書を見ると大家さんの住所が載っていました。これはもう大家さんに相談するしかない。
直談判だと思い、決まっていたスケジュールを全てキャンセルして大家さんがいる大分県に直行!
大分の大家さん
当時はまだ大分空港からホバークラフトが海上を走っていたので、それに乗り大分市内の大家さんのお家へ伺いました。
アポを取ると断られると思い、自宅に着くなり、突撃インターホンを押しました。出てきてくれたのは奥さんで、大家の主人は外に出ていると。軽く事情を説明して奥さんを味方につけようと思いましたが、それも叶わず軽くあしらわれた所で出直しますと。
近くの喫茶店で待つこと3時間。
携帯がなり、大家さんが戻ったのでどうぞとなりました。
お会いしてわかったのですが、大家さんはなかなかの名士の方で家も大きくザ!大家さんという感じです。
自宅に上がり緊張に震える中、大家さんにお会いしました。見るからに恰幅の良いじい様でした。
その大家さんに事業計画書をお渡しして、熱く30分ほど説明しました。
絶対に火事にならないIHシステムを導入することなどを約束し、また凪がどれほどこのゴールデン街の街で支持されてきたか、お客様の声などを紹介しました。
僕からの説明は終わり、怒鳴られると思っていた大家さんの反応は意外に柔らかく、(同じ九州出身として感じるものがあり)
大家さんはひと言「これならええな」でした。
もともと大家さん自身も大分で飲食店を10軒以上やっていて、
大部屋居酒屋、宴会系のレストランなど複数経営をされていました。たくさんの武勇伝や昔話を伺いました。叩き上げで立ち上げの厳しさも知ってのことだったのでしょう。
「よく来たな、そんだけの情熱があるなら、今回の出店認めてあげるよ。」と言われて、もう天にも昇る気持ちでした。即東京に戻り契約をします。
さすがの大家さん、しっかり家賃10万円から12万円上げてきたのはさすがでした。(ってか相当安いっすけどね。4坪ですから相場的にはまー高い)
契約からひと苦労しましたから、営業もやっぱ半端では出来ない感じでしたね。
前回の「覚醒」から何か変えなきゃ結果は変わらない。
そう思い、最初に取り組んだのが外に鏡をつけて店舗がある二階から下の状況がわかるようにしたこと。
ボイス管、人力配送
そして後にボイス管と言われる、下に声が届くでっかいチューブを付けました。これで店の前に立ち止まる人に声をかける事が出来るとなんとも奇妙なことをやっていました。
味も毎日変えていました。
どうせ1日20人ぐらいでしたから、煮干の品質変え、割合を変え、醤油ダレの味わいも変えて…とにかく変えまくりです。
麺は当時立川に製麺機を入れてたのですが、(ここにも相当のドラマがありますが、今回は時間がないので割愛まだどこかで)麺を毎日立川-新宿間を電車で運んでいました。
家も立川だったので、送料を省けると経費削減を徹底して黒字にこだわりました。
そんな毎日を過していましたが、客数は毎日増えていきました。
開業から3ヶ月ほどで月商150万を超えて、流石に1人では無理だという感じになってきました。洗い物など常連様にやっていただいていました笑
この時点で300万を狙いにいきます。
まずは人を投入します。そう今は伝説の「ムタヒロ」の牟田さんを立川店からひっぱってきました。
つづく!