ラーメン凪 創業記 第13章:3号店 ゴールデン街店のはじまり
ラーメン凪 代表 生田悟志が高校卒業から凪創業に至るまでの波乱万丈な創業記!?前回まではこちらから
3号店と海外への展望
立川2号店が軌道に乗り、そこから3号店の出店を考えるように。
時間があれば出来るだけ海外に行くようにもしていました。
そもそも創業時から海外展開の夢がありました。
ニューヨークやシンガポール、中国、香港など、出来るだけ時間を作ってみに行くように。その中でも香港は一際気になりました。
ある時、海外でお寿司屋さんに入ったときのこと。
寿司といっても当時はクオリティがとても低く、お魚の鮮度の悪さやシャリのまずさ・・・あるい意味どこで食べても期待通りでした。
アメリカでもカウンターで食べていて、ふと隣をみるとサーモンだらけ。カルフォルニアロールからサーモンの寿司、寿司、寿司。もうサーモンパーティでした。
そんなイメージの中で香港では驚きが。しっかりネタが美味しい。
また周りの現地の方もちゃんと醤油をつけて、いろんな寿司を楽しんでいました。海外日本食あるあるの間違ったフィルターを一旦取ってみると、日本食のバラエティ感はすごい。
行く度にここでならおいしいラーメンはいけるんじゃないかと決め、凪海外1号店は香港にしようと決めました。
そうやって未来の構想だけ膨らんでいきましたが、国内ももうひとつブレイクする決め手を探していました。
3号店、立ち上げ!
立川2号店は売上こそ良いけども、利益が少ない。
渋谷1号店は500万と堅調ではあったものの、それ以上の伸びが期待できず。
店舗数を増やしながら利益を作っていく事が必要だと思いました。
当時の僕たちは「借金=悪」と勝手に決めつけていました。
もちろん、月次でBSを見てもなんのことやら。
減価償却も意味不明な状態で経営をやっていました。ほんと恐ろしいですね、、
現貯金は200万~500万。
ある程度溜まったら次のお店をやろう!っていう謎の感覚でした。
とにかく出店にはお金をかけない。
2008年はまだそういう時代だったのかもしれません。
投資を低くし、家賃も出来るだけ安く、商品にはお金をかける。
そうすることでお客様をわざわざ呼ぶお店を作る。
まさに今、凪出身のムタヒロ(東京・国分寺)もそのモデルで出店を続けています。
そして、そのモデルの極みとなったのが、新宿ゴールデン街の3号店です。(今は過去のバー営業の名残から凪 創業店としています)
家賃が当時10万円。
バーの友達が店を辞めるからと話を持ってきてくれました。
いや、今でこそゴールデン街は盛り上がってますけど、あの界隈でちゃんと売上を作ることはそうそう出来るものではありません。2008年当時はお客さんが入ってないお店だらけでした。
バー営業 最盛期の限定営業では1日15万売った記録もあったので、ここでお店をやることに。
この場所から後に凪の看板メニューとなる、煮干ラーメンが誕生するわけです。
バー営業の名残を残しつつ、茹で麺機などの設備を入れて300万もかからずにお店ができたと思います。なにせちゃんと業者さんを入れてオープンするのは初めてでしたからウキウキしましたね。
オープンの時のラーメンはなんと立川で出していた豚骨ラーメンを持ってきました。屋台のノリ?というか営業は17時~朝3時でしたから屋台風でいこうかと最初は考えていました。なのでおつまみもお酒もどんどん用意していました。
本物の行列を作りたくて作りたくて、ひっそり開店しました。
味もこれだ!って決めきれていなかったので。その結果、オープン当日のお客様は3人。。
ま、いきなりゴールデン街にラーメン屋なんてやっても、そらなかなか入らないですよね。
で暇すぎて暇すぎて、僕はカウンターの床で寝ることにしました。
ひんやりとした床、幅45センチしかありません。寝返り?もちろん打てません。
ドコドコドコっとお客様が階段を上がってくる音がすると起き上がり、接客するという日々を送っていました。
そんなこんなで床に寝ていたときの事。
いつまでこれを繰り返すのだろうと、ふと頭の中をよぎりました。
仲間のみんなも必死に頑張ってくれている。ついてきてくれている。
なのに僕は自分勝手な判断でお店を出し、結果、ゴミにもならないくらいの感じになっている。。
この時は自分がやらなきゃ!まず手本を見せなきゃ!とグイグイ感もありました。自分の給料は自分で稼ぐ!なんて思ってやっていました。
が、、、寝ていて数字が上がるわけない。
何かしないと現状は変わらない!やるしかない!!!
と決意した瞬間でした。
つづく!(毎週火曜更新)