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「局所性ジストニア(書痙)」について。発病・大学入試・大学生活・現在。

以下は、別のnoteアカウント(削除済み)で2021年2月16日に書いた内容。当時は結局公開しないことにした。気恥ずかしさが勝ったからだと思う。しかし、誰かの役に立つかもしれないと思ったので、投稿することにした。太字なども当時のまま。今思うと少し読みづらいようにも思うけど、手はつけないことにした。


「局所性ジストニア(書痙)」について。発病・大学入試・大学生活・現在。

2014年の秋頃に発病しました。まだ完治はしていませんが、生活に大きな支障は出ないレベルになっています。今回は発病から現在に至るまでの過程を書いてみようと思います。今でこそ、この症状に慣れてきましたが、発病当初は先が見えない不安がありました。症状の程度は人によって大きく異なると思います。「局所性ジストニア」、特に「書痙」に苦しむ人にとって少しでも参考になれば幸いです。以下は、極めて私的な内容になっています。一般論については、医学書や医師の方の話を参考にした方が良いと思うからです。

(以下8,027字 / 約16分で読めます)

発病(高校3年)

最初に違和感を覚えたのは高校3年生の秋頃です。受験勉強も佳境に入り、間近に大きな模試が迫っていたのを覚えています。いつものように勉強していると、利き手である右手に少し痺れるような症状が現れるようになりました。その時は「腱鞘炎」を疑いました。ペンを強く握っており、筆記量も多かった為です。症状はそこまで重くなかったので、特に病院には行かず、冷やしたり、ペンを握る力を緩めたりして対処しようとしました。

しかし冬頃になっても改善しませんでした。むしろ確実に悪化していました。手の痺れは強くなり、12月頃には、まともに字を書くことも困難になってしまいました。無理矢理書こうと思っても、手が動かないということもありました。箸を使ったり、靴紐を結んだりするのは、全く問題なくできるのに、ペンを握った時だけ痺れるので、ひどく困惑しました。

症状が良くならないまま、大学受験本番となりました。入試では、頭の中で回答の方針がわかっても、それを答案用紙に書くことができませんでした。得意としていたはずの数学・物理・化学は、たくさん計算する必要があるため、特に絶望的な出来でした。現役の時は一校しか出願しておらず、そこが不合格だったので、浪人が決まりました。

高校生になってから、部活以外の時間は全て勉強に捧げるほど頑張ってきたのに、このような結果に終わってしまって本当に辛かったです。数年に及ぶ努力が水疱に帰したようで、ただただ呆然とするしかありませんでした。

病名発覚

時系列は前後しますが、高3の12月に家の近所の心療内科に行きました。そこでは「ストレスが原因だろう」とは言われましたが、それ以上のことはわかりませんでした。当時は、自分でも自分の症状を把握できていなかったので、先生にうまく伝えられていなかったという要因もあると思います。抗不安薬を処方されましたが、症状は大きく改善されませんでした。

浪人が確定してから、まずは病院を探しました。高校を卒業する直前の3月中旬の話です。上記の心療内科の先生とはあまり相性が良くないと感じました。診察の際、身体をパソコンに向けたまま、機械的に質問するだけだったので、あまり親身に考えてくれていないような印象を受けた為です。

病院を探す際、高校の友人に相談しました。その友人の父親は外科医で、同僚の神経内科医の先生を紹介してもらえることになりました。個人的に、その友人のことも、彼の父親のことも、とても信頼していました。なので、その紹介であれば間違いないだろうと思いました。

結果、良医に巡り会うことができました。紹介していただいた先生は、医師として、そして人間として、非常に優れている印象を受けました。診察は形式張っておらず、とても気さくに接してくださいました。様々な話を引き出してくださったお陰で、病状を正確に伝えることができたと思います。一方で、医学的な説明の際は、極めて緻密かつ理路整然としていました。医学の知識がない自分にも曇りなく納得できるものでした。

診察の過程では様々な検査をしました。MRIで脳の状態を確認したり、ハンマー(打腱器)で様々な場所を叩いたりといったものもありました。私が申告した症状を起こし得る様々な病気の可能性を1つずつ排除していくイメージです。

診察の結果、「局所性ジストニア(書痙)」であることがわかりました。

「よくわからない違和感」から「局所性ジストニア(書痙)」という病気だとわかったことで、精神的にはだいぶ楽になりました。基本的な治療の方針として、とにかく「書かないこと」を徹底するようにしました。そして手指のふるえ、筋肉のこわばりを抑えるため、脳内の伝達物質「アセチルコリン」の働きを抑制する抗コリン作用を持つ薬も飲むようになりました。

本格的な浪人生活が始まる前に、病名がわかり、治療方針も定まったことは、当時の自分にとって大きな希望になりました。

浪人

浪人してからは予備校に通うことになりました。人との繋がりがあった方がストレスを溜めずに済むのではないかという助言を受けた為です。現役のときは、塾には行かず、一人で参考書を使って勉強していました。個人的にはそのような勉強の仕方の方が好きだったのですが、せっかくなら、これまでと違う過ごし方をした方が良いと思い、予備校に行くことにしました。

そうはいっても、受験勉強優先の「予備校生(浪人生)」というよりは、治療優先の「病人」として過ごしていました。これまで過剰なストレスを抱えていたのは間違いなく、それも発病の原因の1つではあると医師から言われた為です。自分でもそう思います。

勉強は程々にとどめ、予備校の近くを散歩したり、高校時代の友達と話したりもしました。高校時代は「勉強していない時間が怖い」という状態になっていたので、浪人当初は、のんびりすることも、努力しないとできませんでした。徐々にそのような浪人生活にも慣れていき、夏頃には強い罪悪感を感じることなく、のんびりすることができるようになってきました。

一方で成績は落ち続けていました。基本的には字を書かないで過ごしていましたが、1, 2ヶ月に1度、模試を受けることにしていました。どの大学なら受かりそうか、ある程度の目算を立てる為です。発病前であれば想像もつかないような成績に心を痛めていました。そもそもうまく字を書くことができない上、計算力や実践の勘なども鈍っている為、当然と言えば当然なのですが、現実を受け止めるのに苦労しました。

やはり人間は何かしらで成長を感じることが、生きがいにつながるのだと思いました。「今までできていたことができなくなる」ということが続くと、未来への希望も感じづらくなります。

この頃、他人への憤りも感じるようになりました。予備校には、あまり勉強せずに、ずっと遊んでいるような人も少なくありません。そのような人を見ると、「なぜ勉強できる状態なのに、勉強しないのか?」と苛立ちを感じるようになりました。今思うと、そのように感じること自体、とても愚かなことです。他人には他人の事情があるものです。それに他人と比較したところで、自分の病状が良くなることはありません。冷静になって考えればわかりますが、当時はそれだけ余裕がなかったのだと思います。

このように、周りの人の存在がストレスに感じることもありましたが、一方で心の支えにもなりました。予備校の授業はあまり出ていませんでしたが、数学の授業は面白かったので、出席していました。しかし、字を書くのは模試の時だけにしていたので、ノートを取ることはできませんでした。そこで同じクラスの人にノートをコピーさせてもらえないかお願いしたところ、快く承諾してくれました。ノートのコピーが手に入ったこともありがたいですが、それ以上に自分の病状を理解してくれる人がいることも大きな安心感に繋がりました。彼らには今でも本当に感謝しています。

秋頃からは大学受験をする上で必要な、事務的な手続きを開始しました。現役の時は知らなかったのですが、自分の病状の場合、「肢体不自由」として、受験上の配慮を受けられることがわかりました。その配慮により、マークシートを塗りつぶさずチェックマークをつけるだけで済んだり、学校によっては試験時間が長くなったりもします。

申請手続きの為、医師に診断書を書いていただいたり、大学ごとに異なる申請書を作成したりしました。学力がどこまで落ちるのか、病状がどのように変化するのか、予想がつかなかったので、幅広く申請しました。数が膨大になったので、申請手続きにも多くの時間がかかり、とても大変でした。

申請書を提出してからは、大学の方と面談をすることが殆どでした。秋から冬にかけては、毎週のように面談をしていたので、体力的にも、精神的にも疲れました。中には「受け入れ困難」との返答をもらい、受験できない大学もありました。かなり大きなショックを受けました。大学スタッフの人員を考慮すると、入学後、自分の面倒を見ることができないという判断なのだと思います。安請け合いしないことも思いやりだとは思いますが、当時の自分にはそんなことを考える余裕がなく、落ち込んでいました。

筆記量を抑える為にも、「センター利用入試」をたくさん出願し、一般入試は最小限にすることにしました。「センター利用入試」とは、センター試験(現「共通テスト」)の点数のみで合否が決まる入試の形式のことです。これにより、大学毎の試験を受けずに済みます。この入試形式を採用しているのは、基本的に私立大学のみです。

入試本番

最初の試験であるセンター試験は、大きく崩れずに済み、安心しました。合計で8.5割くらい取ることができました。数値計算を沢山しなければならない数学や化学はやはり苦戦しましたが、殆どを文字式で議論できる物理では満点を取ることができ、国語・社会・英語も大きなミスなく乗り切ることができました。この1年間、暗算で問題を解く練習を積んできたので、その成果を出すことができて嬉しかったです。もしセンター試験がうまくいかなかったら、受けるべき一般入試の数も増えていたので、筆記量を抑えられるという点でも大きな意味を持ちました。

私大の一般入試は国際基督教大学を受験しました。この大学は試験日が2月の初週にあります。1月中旬のセンター試験と、2月下旬の国立大入試の日程を踏まえると、筆記の間隔を空ける上でちょうど良いと思いました。また、国際基督教大学は「リベラルアーツ教育」を掲げています。これは、文理問わず幅広く学びたいと思っていた自分には合っていると感じました。

入試の結果、国立大は不合格だったので、センター利用入試で合格した東京理科大学の理学部と、上記の国際基督教大学の教養学部から進学先を選ぶことになりました。悩んだ末、国際基督教大学に進学することにしました。

東京理科大学は専門性が身につきそうなのが魅力的に感じました。しかし、入学前の面談での印象として、入学後はそこまで手厚い支援は受けられなさそうでした。入学後も進級がかかった試験を他の人と同じ条件で受け続けることは、大きなストレスになり得ると思いました。

国際基督教大学は専門性という点では不安もありました。ここは入学者全員が教養学部に所属し、3年次から専攻を決めることになります。幅広く学べることは魅力的ですが、3, 4年生の2年間でどれだけ専門の勉強ができるのか、入学前はあまり想像がつきませんでした。また、大学全体として、人文・社会科学の印象が強かったので、自然科学系の専攻がどの程度充実しているのかも未知数でした。

それでも国際基督教大学に進学を決めたのは、入学後の支援体制が充実していると感じたからです。入学前に、複数の大学で面談をしましたが、一番親身に考えてくれていた印象があります。こちら側のお願いを聞くだけでなく、その要求を踏まえて、相手側からも積極的に具体的な支援案を提示してくださいました。さらに、入試の結果が出てからすぐに、大学側から連絡をいただき、追加で面談の機会を設けてくださいました。そこでは、入学後の授業や課題の形式について説明をいただき、その説明を踏まえて不安点はないか、どのような支援があると良いかなどを聞いてもらえました。これだけ親身になってくださるのなら入学してからも安心できると思い、進学を決めました。

大学生活

1年次は、英語の授業が主でした。その英語の授業では課題が多く出されたのですが、パソコンで行うことができるものが殆どでした。大学入学後は、直筆で字を書かずに済む機会が激増したことは、自分にとって嬉しい誤算でした。

振り返ると、大学入学以前は、極めてアナログな生活を送っていました。スマートフォンは持っておらず、ガラケーを使っておりました。用途も帰宅時刻を親にメールするくらいでした。PCも家にはありましたが、リスニング用のCDをiPodに入れる時に使うだけでした。中学、高校生くらいから、電子機器を使いこなしていれば、見える世界も広がっていたように思います。筆記ができないことで、絶望的な気持ちになっていましたが、文字は書けなくても、「打つ」ことで十分代替できることを知っておくべきでした。

話を大学での授業に戻します。1年次は英語が主でしたが、2年次以降は専攻予定だった化学の授業が増えました。それにより、苦労することが増えました。化学は分野にもよりますが、計算することが多いです。数値計算は関数電卓で行うことはできますが、数値計算に至るまでの立式や式変形に手こずります。大学受験の時にそれらを頭の中で行う訓練を積みましたが、認知的な負荷はかなり大きいです。時間もかかりますし、疲れます。各授業で課題がたくさん出たので、それらを行うために、長時間机に向かうことになり、心身ともに疲弊することが多かったです。

さらに新しい概念を理解するのにも苦労しました。ジストニアを発病したのは、高校3年生の秋頃のことです。その頃には、高校の教科書の内容は一通りさらっており、いかに「解くか」にフォーカスしていました。しかし、大学に入ってからは、新たに「理解」すべきことが増えます。数理系で典型的ですが、新たな概念は自分で沢山計算したり、問題を解いたりする中で理解できることが多いように感じます。なので、なるべく書かずに新たな概念を理解することは困難を極めました。多くの時間を費やすことでなんとか対応しました。

大学2年生の終わり頃には、手術も検討しました。東京女子医大で行われている定位脳手術という脳の手術です。

定位脳手術は、脳の中の特定の構造物をターゲットとして、そこへ電極を留置して治療を行う方法のことです。細い電極の先端を、1mm単位で正確に特定の場所に留置する必要があることから、定位(位置を定める)脳手術といいます。このような定位脳手術には、電極を留置して熱凝固を行う凝固術と、持続的に電気刺激を行う脳深部刺激療法があります。これらの治療は、パーキンソン病、ジストニア、本態性振戦などの不随意運動疾患に対する治療として用いられます。脳深部に細い電極を留置し、視床や淡蒼球を熱凝固または電気刺激をすることで不随意運動が改善します。凝固術の最大の利点は、1回の手術で治療を完結できることです。

東京女子医科大学脳神経外科: HOME > 専門治療紹介 > 機能神経外科 > 定位脳手術:凝固術と脳深部刺激療法」より

一度の手術で完治する可能性が高いことは魅力的でしたが、結局手術はしないことにしました。理由は、リターンに対して、リスクが大きすぎると考えたからです。私の場合、「ジストニア(書痙)」であることは確かなのですが、そこまで重症とは言い難いです。少なくとも、「一切字が書けない」というレベルではないです。加えて、もっとも症状が酷かった高校3年生の時と比べて、改善しているように感じていました。「可能な限り字を書かない」という治療方針が、それなりに機能していると考えました。

さらに、「ジストニアが治ることは本当にリターンと言えるのか?」とも考えました。具体的には、「可能な限り字を書かない」という非典型的な過ごし方が、何か別の脳機能の発達に寄与する可能性があるのではないかと思いました。視覚が著しく弱い方は、それを補完するように、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が発達する傾向にあるという話に近いです。ジストニアを発病してからは、明らかに頭の中で処理すべき情報量が増えました。このような過ごし方は、短期記憶の向上などに繋がり得ると考えました。これは「手術をしない」と決めた自分を正当化するための後付けの理由なのかもしれません。しかし、今でも手術をしないという選択に後悔はありません。

話は大きく逸れましたが、再び大学生活の話に戻します。筆記量を抑えながら大学で勉強するのは苦労が伴いました。その過程で、勿論個人の努力も不可欠ですが、周囲のサポートもとても大きな意味を持ちました。特に、大学の特別学修支援室(Special Needs Support Services、SNSS)には大変お世話になりました。入学試験を受ける前、そして入学前にも面談していただいた所です。

特別学修支援とは
国際基督教大学は以下の基本方針のもと、特別学修支援室が窓口となり身体障がい(肢体不自由・視覚障がい・ろう/難聴)、学習障がい、発達障がい、精神障がい、内部障がい等のある学生に合理的配慮を提供しています。

基本方針
国際基督教大学は世界人権宣言の原則に立ち、すべての学生が機会の平等を基礎としていかなる差別もなく尊厳をもって学ぶことのできる環境を整備、維持する。本学は障害のある者が障害のない者と平等に学修、教育、研究及びその他の関連する活動全般に参加できる機会を確保する。

CTL Center for Teaching and Learning: Home / 特別学修支援」より

特に大学の授業で試験を受ける時にお世話になりました。他の学生は筆記して回答している中、私はPCを使って回答しました。作図など、どうしてもPCでは難しいものに関しては筆記で回答していました。その際、PCの画面が他の学生に見えてしまうこと、また不正防止などの観点から別室を準備してくださり、そこで受験していました。場合によっては、受験者が私1人に対し、1人以上のスタッフの方がついてくださいました。労力と人件費を考えると、とても手厚い対応であることがわかります。

そして、試験以外にも、授業資料を紙ではなくデータで頂いたり、筆記量が多くなりそうな課題に関しては個別に対応策を考えて頂いたりもしました。これらに関しては、私が授業担当の先生と直接やりとりしていましたが、いざという時にSNSSの方が話し合いに加わってくださる状況というのは非常に心強く感じました。

更に、大学でも友達に恵まれました。友達の存在は非常に大きかったです。代筆などの頼みごとは全て受け入れてくれました。そして何よりも、自分の病気をわかってくれていることが大きな支えになりました。大袈裟に取り立てることもなく、フラットに接してくれました。それでいて、要所要所でさりげなく、当たり前のようにサポートしてくれたのが本当にありがたかったです。大学入学という環境の変化があっても、不安を感じることなく過ごすことができたのは間違いなく友達の存在が大きいです。感謝してもしきれません。

現在(大学院)

現在も完治していません。筆記量は必要最小限にするように努めています。今でも字を書いた後に気持ち悪くなり、数日間安静にする必要があったりもします。数理系の勉強が好きなので、思う存分筆記ができないのはやはり不便です。しかし、発病してからの5年間で様々な代替案を考えてきたので、そこまで思い悩むこともありません。なるべく頭の中で理解し、ごく稀に手を動かしながら理解を確認するというスタイルが定着してきました。

最後に

病気になってからはつらいことの連続でしたが、一方で得たことも沢山あります。大きく分けて以下の3つです。

まず、視野が広くなったように感じます。大学受験では浪人が認められていませんでした。しかし、滑り止めで妥協したくありませんでした。結果的に、絶対に本命に合格しなければならないという過剰なストレスを抱えて勉強することになりました。これが発病の大元だと考えています。ただ、今振り返ると、他にも様々な選択肢があったように思います。仮に第一志望が不合格でも、自分でアルバイトしながら再受験することもできたはずです。一度別の大学に入学してから、再受験することもできたでしょう。経済的に親に頼りきりだったこと、そして長期的な視野を持っていなかったことが視野狭窄に繋がったのだと思っています。1つの選択肢に拘りすぎることなく、一歩引いて、常に他の道を模索することの大切さを学びました。

そして、精神的にも強くなりました。病気になってからは、常に先が見えない不安と戦っていました。更に、これまで積み上げてきたものが瓦解するショックも味わいました。これらの出来事に人生の早い段階で対峙できたのは大きな意味を持つと思っています。病気になって以降、少々のことでは動じなくなりました。そして、「AがダメならBで」のように切り替えも早くなりました。

最後に、人を頼ることができるようにもなりました。これが一番大切なことだと思っています。病気になる前までは、何でも自分の中で抱え込む傾向にありました。自分の弱みを見せたくないという思いが強かったのだと思います。それに、相手にも迷惑だろうと考えていました。しかし、いざ助けを求めると、周りの友達があまりにも優しく手を差し伸べてくれるので、少し驚きました。困った時は助けを求めて良いのだということを身をもって学ぶことができました。行き過ぎた自助の精神は心身を蝕んでしまいます。人生において、取り返しがつかない失敗をする前に、このことに気がつくことができて良かったです。今度は自分も困っている人の力になれるように努めたいです。

長文になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。ジストニアで悩む人や、何か先が見えない不安に苛まれている人にとって、少しでも参考になることがあれば嬉しいです!


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