蝉に学ぶ、人を殺してはいけない理由
今年の夏は私にとって蝉の夏だった。
蝉の鳴き声を聞きながら
書斎で仕事していたので、
蝉の鳴き声を聞き分けられるようになった。
特にひぐらしが好き。
夕方から夜にかけて
さめざめと鳴くあの鳴き声が、
心地よい静寂と
やるせないかなしみをもたらしてくれる。
しかし、今でさえ蝉には好意的だけど、
子供の頃は、むやみに殺してしまってた。
カブトムシやクワガタを採りに
近くの林に行っていた時。
私は目当てのクワガタが
見つからなかった腹いせに、
木に止まっていた蝉を
よく殺してしまってた。
家にいる時も、網戸に集る蝉を
布団たたきで殺す始末。
わざわざ殺す理由なんて一つもないのに。
蝉は、私にとって殺されるべき生き物だった。
しかし、大人になって、私は変わった。
蝉が非常に短命であると知ったからだ。
蝉は天敵が多く、成虫になっても
2週間程度しか生きられない。
人生100年時代と近頃
しきりに囁かれるようになったけど、
私達の人生が仮に100年だとすれば、
蝉にとっての1日は、私たちにとっての7年。
私がのうのうと生きてる中で、
蝉は命の炎を燃やしながら、
日々を懸命に生きてるのだと思うと、
すごく愛おしくなった。
いや、尊敬していると言ってもいいかもしれない。
その蝉を見て、私は、
なぜ人は人を殺してはいけないのかが良く分かった。
よく道徳の授業や、
SNSでも取り上げられる話題だよね。
理由は単純で、自分が例え殺したいと思っても、
相手が死にたいと思っているとは限らないから。
私の命の目的と、相手の命の目的は違う。
蝉は生きたい。生きたいから鳴くのだ。
いやむしろ、鳴いて敵をおびき寄せるという
リスクを犯してでも、
メスを呼んで子孫を繁栄させたい。
私なんかより生きる意志、
次世代に繋げる意志が強い。
人を殺すことも一緒。
いくら自分が殺したいと思っていたとしても、
相手には是が非でも生きたいという
意志があるかもしれない。
生きる理由なんて人それぞれ。
憎しみや怒りに囚われて、
殺意を抱いたとしても、その殺意が
肯定される絶対的な価値観なんて存在しない。
人であろうと、虫であろうと、
生き物の生きる意志を尊重する人でありたいね。