まつりぺきんさんの『川柳まつり』を読んで
まつりぺきんさんのネプリ、『川柳まつり』50句を出して読んでみました。とても面白かったです。5章に別れていてタイトルがつけられています。惹かれた句を抜いて鑑賞させていただきました。
よろしかったら読んでみてください🎵
==長文注意==
はじめまして(その一)の章より
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会議室白い空気を弄ぶ
伝説の社員はきっと隠しキャラ
滅びゆく限界サラリーマンの朝
この章では、会社風景を詠んだ句が一番印象に残ったので抜いてみました。
新聞柳檀等へのサラリーマン川柳投稿句はオチ、風刺や笑いが中心だけれど、これらの句は普通のサラ川句と違って、現代川柳のフィルターを一度くぐって濾過された詩情が盛られた句と読めます。その意味で、やはり普通のサラ川とはポエジーの質感が違う気がします。
会議室白い空気を弄ぶ
句に弄ぶ(もてあそぶ)とありますからなにか詩情の底流には反骨や否定の精神があるようです。が、白い空気の語をどう読むかは読者に委ねられていて、詩的余白の部分を大きく設けてある印象です。
真っさらで清新な空気なのか、白けた空気なのか、明白な情報は隠されています。なので、ああそうか!と膝を打つような膝ポン川柳とは違った、ぐっと一歩引いたクールな文体の句になっているようです。
伝説の社員はきっと隠しキャラ
隠しキャラを検索しますと「ゲームで一定条件を満たすと登場するキャラクターの事」と出てきます。
自分はゲームはやらないので隠しキャラの読みがあっているかわかりませんが、会社(自分の所属する部署)の窮状を救う存在、あるいは更なる発展をもたらしてくれる存在である伝説の社員=隠しキャラは、やはり一定の条件を満たすまで自分たちが更に頑張らなければ現れてくれないと読めます。
はっきりした否定、詠嘆や諦念の表現はないけれども、そこはかとした鬱屈を感じます。
滅びゆく限界サラリーマンの朝
はじめまして(その一)の章の句のなかでは、はじめてはっきりサラリーマンという語が登場してきます。
句中の節(段落)にキレがあることを意識して読むと面白かった句です。
1)滅びゆく限界 / サラリーマンの朝
2)滅びゆく / 限界サラリーマンの朝
1)は、これ以上サラリーマンとしてやっていけない(滅びゆく)限界があるのだという切迫感の提示。そしてサラリーマンとして一日を過ごさなければならない始りの時間(朝)が置かれ、おもくるしい空気感、行き詰まり感が伝わります。
2)は、限界サラリーマンという造語として読むと新鮮な面白さを感じました。限界までがんばってしまうサラリーマン、つねに限界を超えることを期待され働いて(働かされて)しまうサラリーマン。今の世にあってはやはり滅びゆく存在だろう、みたいな。自分はそんなふうに読みましたが、限界サラリーマンの語はいろいろな(真逆にも)解釈で読めると思います。
自分としては2)の読みの方向が面白かったです。
重喜劇の章より
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※個人の感想非常口
それは「業」?いや「慈し『み』」深すぎる
重喜劇の語を知らなかったので検索。どうやら映画監督の造語らしいです。「今村監督は自作を象徴する表現として「重喜劇」という言葉を使っています。 軽喜劇や軽演劇をもじった今村自身の造語です。 曰く「軽いばかりが笑いではない。 もっと人間の真実を描いてずしりと腹に響く重い笑いもあるはずだと私は考え始めていた」(「映画は狂気の旅である」2004年・日本経済新聞出版)」とありました。カンヌ映画祭で2回パルムドールをとった監督(史上8人のうちの1人)だそうです。
章のタイトルからして、「人間の真実を描いてずしりと腹に響く重い笑い」を狙った作品群という読みが出来そうです。
※個人の感想非常口
8音+5音の13音で、西沢葉火さんが提唱した #ジュニーク (5+7音もしくは7+5音の、12音定型の川柳句)の変形として読むことができます。あるいは、短律の自由律句としても楽しめました。
いま、思い切り自分の感想(本音)をいったらかならず炎上するだろう、言い過ぎにあたるだろうという場面ががあります。その場面では絶対にいえないのですが、もし非常口があれば個人感想として悶々としてたものをぶちまけたいという時もあります。
属する社会において、非常口ではない普通の出入り口でのべる感想に求められるバランス感覚。そういう意味での常識のレベルが昔に比べてはるかにハードルが高くなってきている現実。
そのことへの疲れや笑うしかない思いをまざまざと感じさせる句です。
注意書きに用いる「※」がとても効いているなと思いました。
それは「業」?いや「慈し『み』」深すぎる
この句は『み』の部分をどう読むかで句の奥行きが凄く変わるなと思いました。
業(カルマ)の対義語として慈しみが置かれているのかと思って検索しましたが、業の対義語というものはないみたいです。
古代インド思想?では、業というのは行いという意味がもととしてあり、業(行為)には結果が付いてくるものという思想があったようです。なので善い行いをすればよい結果(業果)、悪行には悪い業果があるとされたようです。
「いや」といって対義的な後半部が展開するかと思いきや、「慈し『み』というまったく関係のない語が展開されて、肩透かしのような文脈のズレを生み出しています。ここに川柳味があると言えるかもしれません。
加えてわざわざ『』で括られた『み』は、見、身、実、未、美、meなどをひらかなの代わりに代入して様々に解釈することが可能となっています。
一体何を慈しむのか?惹き込まれます。
新世紀の章より
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mRNA第七話
新世紀の章の10句中では、mRNAの他にも、コンセンサスアルゴリズム、人工知能、メタバース、プロトコル、トランザクション、KPIなどの語が登場します。これらの語もやがては普通に使われる単語になっていくのかもしれません。
mRNA、どうやら医学専門用語?で特に現在ではワクチンに関する用語として注意を呼び起こされます。
検索すると「mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンで注射するmRNAは、数分から数日といった時間の経過とともに分解されていきます。また、mRNAは、人の遺伝情報(DNA)に組みこまれるものではありません。身体の中で、人の遺伝情報(DNA)からmRNAがつくられる仕組みがありますが、情報の流れは一方通行で、逆にmRNAからはDNAはつくられません。こうしたことから、mRNAを注射することで、その情報が長期に残ったり、精子や卵子の遺伝情報に取り込まれることはないと考えられています。」
と、あります。
現在、新コロナとワクチンは2年以上時事川柳の無視できないテーマとして存在し続けています。
第七話については、第七話の「話」の部分の読みで、話=わ=は=波と読み替えられそうです。ワクチンの主要な仕組み(mRNA)vs新コロナ第七波という読みが可能になり、内容のコントラストが際立ってきます。
mRNAの9音+第七話の5音で14音の自由律句として読めます。
14音のなかでシンプルながら、内容が凝視されたスタイルだと思いました。
明日があるの章より
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無果汁の人の微笑みドットコム
ラーテルとクズリ戦う日本晴れ
単気筒ヒノキチオール道の駅
「翌朝」を保証するものではありません
明日があるという希望を持たせる章タイトルですが、作品のほとんどはその否定を思わせる内容を含んでいます。逆説的タイトルです。
最後の句「翌朝」を保証するものではありませんは、まさにタイトルに呼応した逆説的意味での〆の句として置かれているようです。
無果汁の人の微笑みドットコム
この句は、無果汁の人というワンワードで読むととても新鮮で面白いなと思いました。例えば、グレープフルーツの無果汁炭酸飲料は、生グレープフルーツ果汁は0%です。人工の香料や代替の原料によってあたかもグレープフルーツ果汁の炭酸割を飲んでいるような感覚で飲めます。
そのひと固有で本来の感性やキャラや生き様(いわゆる人柄・個性としての生感)などは影を潜め、すべて与えられた人工の要素によって出来上がった「無果汁の人」として微笑みつづける存在。
ライトでポップであると同時に不気味な印象も受けます。
ドットコム=どっと混む。無果汁の人の微笑みがひしめき合うのです。
システムのコントロール化と画一化がすすんだ近未来の風景としての明日が浮かんできます。
ラーテルとクズリ戦う日本晴れ
先週相撲の名古屋場所へいったついでに東山動植物園へ行きました。
その時ちょうど本物のラーテルを観ました。アナグマの一種だとかで、気性が凄く荒く怖いもの知らずの動物で日本の動物園でも3か所でしか飼われていないという事でした。主食はハチの巣の蜜だそうです。クズリも同じような種類の動物らしいです。
ラーテルの象徴するものとして、たとえばきわめて競争力の高い外資企業が乗り込んできていることに置き換えて読んだりしました。ア〇ゾンなどは日本市場に食い込みながら儲けても、法の抜け穴をくぐってほとんど日本に税金を納めないので、日本のお金はラーテルの主食の蜜の如く、どんどん外国に吸い取られていきます。クズリも同じような存在の企業であって、日本はラーテルとクズリの戦いによって好きなように荒らされる場としての存在に過ぎません。彼らにとって日本市場はまさに日本晴れの状態であった。などという読みも出来そうです。こうなると日本経済に「明日がある」のか?ということになります。
単気筒ヒノキチオール道の駅
この句は、今回取り上げた中では一番さわやかな一句に読めました。
休日、単気筒のバイクでヒノキや杉の針葉樹林の森を貫く一本道をツーリングしていく。すがすがしい針葉樹の放つ香(ヒノキチオール)によって癒されます。峠を越えて道の駅で一服するときの気持ちよさ。
明確な三段切れで、節ごとのイメージが等分の分量で立ち上がってきます。しかし句として散らかった読みにくさというものが皆無です。
うまくイメージのバランスがとれているなと思いました。
以上、妄想的勝手読みを続けてしまいましたが、長々ここまでお付き合いいただきまして有難うございます。
まつりぺきんさんの作品、今後も楽しみに読ませていただきたいなと思います。