20世紀末少年たちのハイパーディアブロ
昭和59年、1984年生まれの37歳。
ミレニアル世代の我々は、世紀末という時代の過渡期を中学生〜高校生として過ごした、いわば20世紀〝末〟少年でした。
※ミレニアル世代(1981年以降に生まれ、2000年代の初頭に成人または社会人となった世代)
そんな我々の世代を直撃した大きな時代の潮流、それが…
いわゆる「IT革命」です。
黎明期のインターネットは、今よりずっと怪しげでいかがわしい雰囲気を持ったディープな世界でした。「フェイクニュース」という言葉はまだ存在しておらず、今よりもずっとファクトチェックがゆるい。
一言でいうならば「デタラメで、ちゃんとしてない」
現在のネットが大資本が経営する巨大な商業施設、ショッピングモールのようなものだとすれば、当時のネットはネオン街にある雑居ビル、あるいは不良の溜まり場になっているゲーセンやパチンコ屋。「2ちゃんねるは便所の落書き」とはよく言ったもので、とても今のようにクレジットカードを使った通販なんて利用する気になれない。アングラで怪しい・・・でも入り浸ってしまう。そんな場所でした。
巧妙なウソにあからさまなデマ、氾濫する膨大な情報に惑わされ「釣られる」うちにネットに上がっていない一次情報や、日本語に翻訳されていない外国語の記事も含めて、わからないなりに広くソースを探ってみる。情報の精度や信頼度を高めるためには、入念なクロスチェックをかける必要がありました。
そうした状況は実は今も変わっていないのですが、公共性のあるマスメディアのほとんどがデジタル化されておらず、翻訳ソフトの精度も低いなか、利用する人々がそれぞれリテラシーを高めていった、まさに過渡期といえる時代でした。
そんな油断ならない場所ではあるものの、〝厨房〟の日常は退屈すぎて何か刺激がほしい。だから遊びに出かけない時は、自宅でネットを使って新しい情報を拾っていました。
自分の価値観を一変させてしまう存在や出来事が、この世のどこかにあるに違いない。当時の僕らはそんな風に自分の「世界認識」を拡張させてくれるような、まだ見ぬ情報に〝飢えて〟いました。
なぜ、こんな文章を唐突に投稿したかというと、友人が出演しているYouTube動画のリンクを送ってくれたので、興味本位でちらっと見るつもりが、気づけば夜中まで見入ってしまったからなのです。
そして2000年という激動の時代、僕が見た景色の一部をこうして文章にしてみようと思いました。
きっかけとなったYouTubeの動画というのがこちらです。
「ディアボロの歴史」という恐ろしくマニアックなテーマを、和気あいあいと語る友人とその仲間たち。
彼らは世紀末の日本で、おそらくポケモンの次くらいに一大ムーブメントとなっていたであろう「ハイパーヨーヨー」(1997年発売)からの流れで、「ハイパーディアブロ」(1999年1月ディアウェーブ先行発売)に飛びついた当時のプレイヤー達です。
ディアボロって何?
ほとんどの方がご存知ないと思います。
簡単に説明すると、下の画像のようにお椀を逆にして底の部分でくっつけた「コマ」のようなものを、糸(ストリングス)をつないだ2本の棒で回転させて操る、ある種のジャグリングのような競技です。
1999年1月放送のフジテレビ「新春かくし芸大会」でナイナイやネプチューンが 披露していた「中国ゴマ」と聞けば、あれか!見たことある!と、膝を打つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、この記事に辿り着いた時点で〝ディア〟に関して、かなり詳しい方だと信じて微塵も疑いませんので、下手の横好き、生兵法は大怪我のもと、けっこう毛だらけ猫灰だらけにならぬうちに、中途半端な解説はこのあたりでおしまいにします。
僕も突っ込んだ話ができるほど詳しくはないのです。何卒、ご容赦くださいませ。
一言だけ重要な点を申し添えておくと、彼らは日本における草分けとして〝ディアボロ・シーン〟を牽引。そして大会運営といった裏方をこなす一方で、未知の分野の開拓、最新技術の習得と既存トリックの進化・発展、そんな風にしてムーブメントの中核を担っていた当時のトップランナーたちです。
友人も練習に明け暮れるなか、大会を主催したり、ホームページを作成したりと、真剣にのめり込んでいる様子が、傍目で見ている者にも伝わってきました。
個人主催の日本大会「FEDC」ことFar East Diabolo Competitionで優勝した友人。そんな彼につけられた異名が東方不敗こと〝マスター・アジア〟でした。その演技の動画が拡散されるやいなや世界の強豪たちをざわつかせ、次第にある種のカリスマのようなオーラ〝王者の風〟をまとうようになっていきました。
そんな友人の周囲には権力に群がる怪しげな連中が集まり、いつしか同級生たちは彼のことを〝さん付け〟で呼ぶようになりました。どんどん多忙になっていく彼とは会えても〝残像〟だけ、そんな風に地元の友達に対しても〝邪眼の力〟をちらつかせていました。
そういった地元の友達A視点でのサイドストーリーが頭にあった事も影響し、ぐいぐいと話に引きこまれてしまったわけです。
彼らが語るディアボロの歴史というのは・・・
お笑いに例えると、たけし、さんま、タモリのビッグ3以前どころか、ハナ肇・植木等らクレイジー・キャッツの面々が進駐軍のクラブで〝ズージャ〟を演奏していた戦後間もないあの時代。
戦国時代でいうと関ヶ原どころか、そのはるか昔・・・北条早雲が小田原城を乗っ取り、風雲急をつげた下克上、国盗りの先駆けとでも言えば雰囲気が伝わるでしょうか。
混沌とした日本ディアボロ界の夜明けを、彼らはわかりやく「まだ何も始まってない」あるいは「紀元前」という言葉で説明しています。
かすめただけで肉ごと皮膚が抉られる、ある種〝凶器〟ともいえるディアボロをビュンビュンと振り回せるほどの怪力、腕っぷしを頼りに成り上がってきた荒くれ者の口から、いざディアボロをめぐる〝クロニクル〟が語られだすと・・・
サイヤ人、皆殺し、ジェノサイド文化、といった凄惨で物騒な言葉が飛び交い、いつ拳や蹴りが繰り出され、掴み合いになるともかぎらない、緊迫した議論を目の当たりにすることとなりました。
はじけて混ざらんばかりの彼らの迫力に圧倒されつつも、僕が知る数少ない詠唱呪文(殺しては)「ナランハ」が唐突に発せられると、枯木に緑が芽吹き、野には蝶が舞い、木陰からひょっこりとリスが顔をのぞかせる、あたりに秩序ある平和が訪れ、だいぶ恐怖もやわらいでまいりました。
一方で「ダンカン」は・・・ヨーヨーの精霊バンダイあるいは、たけし軍団の召喚呪文であったと記憶しております。
さて、気を取り直して本題に戻りましょう。
鏡張りのいかがわしい部屋で扇状に陣取り、武将さながらにパイプ椅子に腰掛け物思いにふける者、あるいは仁王立ちで腕を組み周囲を威圧する者、戯れにディアボロを片手で粉砕してみせる者、そんな歴史の語り手たる彼らは口々に数々のパワーワードを発していきます。
それはディアボロに関して戦闘力5以下の田舎の農夫でも、ギリギリ死なない程度に刺激的で、かつ惹きつけて離さない力を持っていました。
彼らの紡ぐ言葉から20年来という関係性、過ごした時間と比例するように、大人でも容易にはひきちぎれない〝少年ジャンプ〟ほどに太くなった絆、そうした空気感〝聖光気〟がありありと伝わってきました。
彼らの口をついて出る名言、あるいは大言壮語の一部を紹介するとこんな感じです。
「子供の夏休みは最強に長い」
「まだADSLの話だから」
「2ディアなら10年くらい負ける気がしなかった」
いかがですか?
マ・クベか!と、ツッコんだあなたは恐らくガノタでしょう。おめでとうございます。これでジオンはあと10年は戦えることでしょう。
どれも壺を送って差し上げたくなるほど、グッとくる強烈な〝パンチライン〟ばかりではありませんか。
歴戦の猛者たちが幕末さながらに〝ディアボロの夜明け〟維新の黎明期を語るその様子たるや「るろうに剣心」コミックス第7巻での元新選組・斎藤一との壮絶な〝じゃれ合い〟を彷彿とさせるものがあります。
激動の時代を生きた者だけが知る、苛烈な乱世の熱気。そんな〝時代の熱〟のようなものを、動画をみる者は弥彦か薫のポジションでひしひしと感じることになるでしょう。
彼らの〝じゃれ合い〟に割って入ることができるのは、同時代を生きたものだけなのです。たしかコミックスでは、そのような解説がなされていたと記憶しています。そんな熱にあてられて、僕のMacBookも少々ほてっている様子でした。
さて、あの場で発言する資格があるのは、スティックとディアボロの剣林弾雨の中をくぐり抜けた、いわば〝志士〟たちだけなのでしょう。
一体いくつのスティックが折れ、ディアボロが地面に打ちつけられ、無惨に破壊されたのか。
のべ何万キロメートルのストリングスが悲鳴をあげながらディアの犠牲となり、ベアリングとの望まぬ摩擦の果てに、張り裂け、打ち捨てられていったのか。
どれだけの〝獅子〟たちが己の技を磨き、戦友(とも)と切磋琢磨を繰り広げ、2ディアと1ディア、競技間の軋轢に悩み、勝敗に一喜一憂し互いの健闘を讃えあっていたのか。
戦場を知らない我々の想像を超える残骸の山、荒廃した大地をさまよい非常食(枯渇しかけるハイパーディアブロ)を奪い合う熾烈な戦いの闇もまた、戦時中の黒歴史として赤裸々に語られていました。
前置きが大変長くなりました。
ここからが本題。ずばり歴史を変えた〝今日のその時〟です。
偉人達の立志伝、あるいは創業期のような貴重な話を傾聴するなか、最も興味深かったのは、日本での「ディアボロの歴史」という縦軸に「インターネットの普及」という横軸が、楔のようにガシン!と打ち込まれたその瞬間です。
英雄たちの口をついて出たのはこんな言葉です。
「インターネットの回線が速くなってきて・・・」
「・・・ありえないことをさらっとやってる、合成か?」
冒頭で〝情報への飢え〟という話をしましたが、当然彼らもまだ見ぬ世界に飢えていたはずです。新しい〝文明〟はネットや仲間たちを通じてもたらされました。
ディアボロの歴史という時系列を紐解いていくなかで、自然と飛び出した「インターネット」というキーワード。その横軸と縦軸、つまりxとyが指し示した座標。
それが2000年という激動の時代です。
彼らの口から語られたのは、インターネット回線の優劣が海を隔てた強豪たちの技を研究する上で、大きなアドバンテージになっていたというエピソードです。パッと見では何が起きているのかわからない、まさに〝幻〟か〝合成〟ミスターサタンが言うところの〝トリック〟にしか見えない華麗なトリックを披露するプレイヤーの映像が、ネット上で出回るようになりました。
「なんだこれ?」「このままではおいてかれてしまう」
まさに〝ネットの海は広大〟であったわけですが、当時はまだYouTubeは存在しません。
すると一体どんな事が起こるのか。
志士たちが語る〝明治剣客浪漫譚〟を参考に僕なりに考察してみました。
お互いの力は認めつつも、相手よりもスッと頭ひとつ抜きん出たい。ヤツができない技を平然と繰り出し「ふはは怖かろう」とばかりに度肝を抜いてやりたい。しかも脳波でコントロール・・・したい。そんな静かな〝マウント合戦〟のようなものが、水面下では繰り広げられていたに違いありません。
「俺が知らない技を、あいつは知っている」
初見ではやり方すらわからないような技を目の当たりにすれば、心中穏やかではいられません。
表向きは平静を装おうとしても、額からは滝のような汗が流れ出し、放水時のダムのごとく脇汗が噴き出していたはずです。いくら「山は動かぬぞ」と強がったところで、そこには新たな湖が出現し、周囲を巻き添えに溺れ死ぬ可能性すらあります。一刻も早く汗を止めてください。
そんな「負けたくない」という気持ちがあるからこそ、本気になれる。そんな仲間たちと競い合い、互いに高めあっていくことが楽しくないわけがありません。
となるとネットでいち早く情報を仕入れ、新たな技を探し回る「情報戦」が展開されることになります。
そして黒船は遠く海を隔てた異国から来るとばかりは限りません。今のようにSNSが存在していない、この時代。ちなみにmixiが登場するのは2004年の事です。
あの頃はケータイ番号を知っていればショートメール、またはメールアドレスを交換して連絡を取り合う、それが主な通信手段でした。つまりあらかじめリアルの世界で知り合いになるか、友人や仲間を介して出会う必要がありました。
あとは掲示板です。SNSがないからこそ、自分達でホームページを作り、アンテナを広げていく必要があったのです。みずから探しに出向くだけでなく情報の集積地や交流できる場を作る。カリスマにはそういった効率的で合理的な判断、そして情報の発信力、今でいうインフルエンサー的な〝リーダー的〟な要素が求められつつあった時代でした。
当然〝俺より強いヤツ〟は国内のあらゆる地域にゲリラのように潜んでいます。つまり大会を主催したり、遠征したりすることで、まだ見ぬ強敵(とも)と突如エンカウントする〝強襲!サイヤ人現象〟そんな事が頻発するわけです。
壮大な歴史絵巻のように、まさに弱肉強食、食うか食われるか、生き馬の目を抜く乱世の世界です。
現在のようにAmazonや楽天もないこの時代、海外で販売されているDVD(※ディアボロジー)を仲間が持ち帰ってきたと聞けば、ディスクに穴があくまで何度も巻き戻し、こすり倒して研究し技を盗む。
こうしたエピソードを聞けば、彼らを幕末の志士たちに例えた僕の気持ちが伝わるはずです。
伊藤博文ら長州ファイブ、岩倉使節団、勝海州、福沢諭吉、例を挙げればきりがありませんが、水平線のはるか彼方に思いを馳せ、海を渡った明治の元勲たち。その姿が彼らに重なって見えてしまうのは、もはや仕方のないことなのです。あきらめてください。
2000年の前後というのは、まだまだ海外は遠く離れた異国で、誰かが持ち帰ってくる鮮度の高い生きた情報はとても貴重な時代でした。
日本では得られない情報というのは、テレビやマンガ、小説や映画などコンテンツの元ネタになったりしていました。そんな事は言わずもがな、古今東西、文化とはそうやって醸成されていくものです。
そういった出会いは、時に悲しい結末を迎えることもあるでしょう。彼らのディスカッションの端々に、繰り返される歴史の悲劇〝刻の涙〟を垣間見た気がするのです。
さて、当時一世を風靡していた時代の〝先行者〟侍魂に代表されるテキスト系サイトや2ちゃんねる、P2Pのファイル共有ソフトなど、〝邪眼の力〟を持つ友人はネットの情報に明るく、僕もその恩恵に預かっていたのですが、その事とディアボロとが、実は密接に絡んでいた事に気づき、思わず〝今日のその時〟などと口走ってしまったのです。
現代の若者をデジタルネイティブと形容するように、一家に一台、あるいは個人でパソコンを所有することも珍しくない時代となりました。書類作成など事務作業は、もはやパソコンでやるのが当たり前、といっても大方異論はないでしょう。いや同意しかねる!という方は、画面を見つめたまま静かに挙手をしてください。
政府の進めるGIGAスクール構想をめぐっては、全国の小学校でタブレットの配布が始まるといいます。時代が移り変わる、その変化の速さにはめまいを覚えるほどです。
ミレニアル世代である僕らにとって、パソコンが一般化したのは90年代。〝残酷な天使のテーゼ〟が家電量販店に響くなか、人々が行列をつくりWindows95を買い求めた、あの頃に遡ります。
当時の日本ではパンタロンを履いた長髪のヒッピー達が闊歩し、新宿ではフォークゲリラが出没。ゲバ棒とヘルメットで武装したデモ隊がシュプレヒコールをあげるなか、火炎瓶と催涙弾が飛び交い、放水車がデモ隊を蹴散らしていました。
そして機動隊がバリケードを突破し、学生たちが打ちひしがれるなか、学校に〝コンピューター教室〟なるものが作られます。
いきすぎた校則や徹底した管理教育に反発するように、校内暴力と学級崩壊が社会問題となり、若者たちの間では「盗んだバイクで走り出す」ことを奨励するかのような歌がもてはやされていました。
そしてスカイネットが反乱を起こし、世界は核の炎に包まれ、ターミネーターによる人類抹殺計画が始動。去年終わりを告げたドコモの〝iモード〟が「始まる」と宣告されたのが199X年の事です。
荒廃した都市では火炎放射器で武装したモヒカン頭の屈強な男たちが「アビバ・・・アビバー!」と口々に叫び、殺戮と暴虐の限りを尽くしていました。
そんな世紀末を生きた僕らは、とにかく新しいモノに飢えていました。
ファストファッション、ファストフード、食べ物もトレンドも使い捨てるように消費しては、すぐに新しいものを求める。そのサイクルが加速するディアボロのように勢いを増していったわけですが、そんな時代の入り口が2000年であったと思います。
世界が加速する欲望に翻弄され続けた結果、僕たちは見て見ぬフリができないところまで追い詰められてしまいました。あのシャアが言っていた「地球が持たん時」を意識せざるを得なくなってしまったのです。さまざまなものがデジタルへと移行し、人類は持続可能な社会を模索する新たなフェーズへと舵を切りました。いつまでも地球の重力に魂を引かれたままでは、僕たちは21世紀を生きる事ができないのかもしれません。
もう一つ、当時の思い出話をさせてください。
こんな事を書くと軽蔑されてしまいそうですが・・・当時の感覚では全身をユニクロでコーディネイトすることはタブー視されていて、着ている服がユニクロだと見破られる事を友人同士で〝ユニクロバレ〟などと言ってからかっていました。
今では全身ユニクロなんて、おかしな事でも何でもない普通のことです。
しかし「安かろう悪かろう」というのが、当時の大衆感覚でした。30年変わらぬどころか徐々に下がる平均所得、しかし年金などの社会保障費や消費税はしれっと上がっていきます。失われた30年、抜け出せないデフレの果てに、日本人の意識はすっかり変わってしまったのです。
〝ディアボロ創世記〟を語る彼らの話に耳を傾けているうちに、10代だったあの頃の記憶がよみがえってきました。そしてふと天を仰いで呟きました。
ガラケーだったよな、あの頃・・・と。
今ではスマートフォンで写真どころか、動画が撮影できるのは当たり前。通信速度がみるみるうちに向上し、YouTubeなどSNSはとうとう動画の時代に突入しました。すると国内と国外の情報の平準化がより一層進みました。
米国やヨーロッパ、韓国や中国の今この瞬間の情報に、僕らはほぼタイムラグ無しにアクセスする事ができます。そしてFacebookやInstagramを通じて、日本にいながら友人になることだって可能なのです。
世界との距離が縮まったせいで、大抵のことはあらかじめ知っている。通信技術の進化によって、世界は〝自宅から地続き〟のものとなり、ネットが持っていたあの猥雑さ、デタラメ加減が大分薄まってしまった気がしてなりません。
そんな時代の変化の大きな波は、ディアボロ界にも当然のように押し寄せ、揺さぶり続けました。最後の動画で彼らは〝維新後〟の世の中について語り、こんな言葉で締めくくりました。
「世界が平均化されて、みんながみんな競えるようになった」
「情報戦が少なくなった、YouTubeより前の世界で終わったなって」
21世紀の幕が開けた2000年。高校生になったばかりのあの頃。
20世紀〝末〟少年だった僕らが生きていたのは、紛れもない時代の過渡期〝IT革命〟の真っ只中でした。
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