地方へ アヌシー
リヨンからアルプス方面へ行く地方線は、主にグルノーブル行きとシャンベリー行きがある。両者は途中で二股に分かれ、ともに一時間半程度で着く。
グルノーブルは冬季五輪の会場になったこともあり、周辺に多数あるスキー場の基幹都市でもある。ツールドフランスのアルプスステージの起点としてもおなじみである。
一方のシャンベリーは、アヌシーやエクス・レ・バンなどの湖畔の保養地にも近い静かな町である。ルソーがその若き日に、思念を深め思索を巡らせた場所でもある。
シャンベリーで乗り換えると、素晴らしい山岳景観の中を列車は走って行く。ほどなくして、きらきらした湖面が車窓いっぱいに現れた。車内は明るくなった。湖面の向こうの山はその反射のなかで、美しい稜線を空に描いている。ブールジェ湖畔の保養地エクス・レ・バンは、フランス有数の温泉地でもある。さらに進んで行くと、目的地のアヌシーに至る。
アヌシー駅を出て湖の方に歩いて行くと、すぐに旧市街に入る。街の中をきれいな川が流れる。思ったより水は多く、流れも激しい。清流がどどっと、花々の彩る街を洗うように流れていて、その光景は美しいと言うしかない。日本でこれに匹散しうる光景と言えば、梓川流れる上高地くらいしか私には思いつかない。といっても上高地は標高1500mあり、夏場のみ栄える高原リゾートであり、アヌシーは人口5万人を超える歴とした都市で、標高は450mに過ぎない。
日本で450mだと、こうはいかない。これは多分に夏季の湿気が影響していると思われる。ヨーロッパは標高の低いところでも山がアルプス式に尖っていると和辻哲郎も書いている。アヌシー湖の向こうに連なる山々もアルプスのような連なりを見せているが、ここはまだアルプスの手前である。
湖岸に出る。ヨーロッパ一の透明度を誇ると言われるだけあって、アヌシー湖は美しい湖面を湛えていた。花々彩る街並み、透き通った湖、対岸の山々。すべてがちょうどいい塩梅で、完璧と言っていい美しき調和がある。
アヌシーはヨーロッパの他の山岳都市に較べて、明るいイメージがある。多分それは空が広いからで、これより奥にあるシャモニーは渓谷に位置し、アルプスの盟主モンブランが大きく空を遮るが、アヌシーは湖畔の町で、周囲の山はそれほど高くない。山岳景観としての迫力は劣るが、ひと夏をそのなかでゆっくりと過ごすには、これ以上のところはそうは見当たらぬ。
湖岸をさらに歩いてみた。遊覧船もあったが、私が訪ねた16年夏は、滞在時間が半日もなかったので、とりあえず行けるところまで行ってみることにしたのである。
湖の風景はどこを切り取っても絵になった。湖岸に並ぶボートも湖上に浮かぶヨットも、きらきらとした湖面を彩っていた。少女が自分の乗るボートを引き寄せている。きらめく湖面の向こうには、無数のヨットが浮かんでいる。対岸には山が連なり、山の上にはところどころ雲が懸っている。
芝の続く公園の中に入った。そこから眺める湖は、シニャックの絵でも観ているような印象があった。芝の一角に、白い可憐な花々。すらっと伸びた樹々の葉は、所どころで光を遮る。遮られた光の先には、エメラルド・グリーンの湖が置かれていた。自転車を置いて休む人も、絵のなかに参画している。あらゆる色が点描されているような眩さが、目の前の光景にはあった。
さて、そんな、どこを取っても絵葉書のような景観のなかで、私はキャリーバッグをコロコロさせながら、湖岸をひた進んでいた。リヨン滞在中の4日間のどこかでアヌシー訪問を考えていたのだが、天気がよくない。アヌシーは是非とも天気のいい日に訪れたい。そんなこんなで結局、移動日に強行することになったのである。フランスの駅にはコインロッカーはなく、よって移動日は常に、荷物とともに過ごさなければならなかった。
景色に見惚れながら一時間は歩いただろうか。目の前にはカフェがあった。湖に向かって、いちめんにテーブルと椅子が置かれてある。それらはゆったりとした間隔が取られ、30卓はあるだろうか。しかし昼にはまだ早い時間というのもあってか、客は他に誰もいなかった。お陰で私は、絶好のロケーションの中で、しばしのヴァカンス気分を味わうことができた。
滞在時間は半日にも満たない束の間のヴァカンスではあったが、それなりにゆったりと過ごすことができた。しかしやはりアヌシーでは、もっとゆっくりと時を過ごしたい。ここは観光の合間に忙しなく訪れるようなところではない。
次訪れる時は数日かけて、湖上にヨットを浮かべたり、湖岸を自転車で一周したり、周りの山をトレッキングしたりしてみたい。そんな風にして、フランス人のようなヴァカンスを過ごしてみたい。
私はそんなことを夢想しながら、再び荷物とともに、コロコロと来た道を引き返して行った。
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