熱狂のユーロ2016・プロローグ②
7月7日、午後8時前。エッフェル塔下のシャン・ド・マルス公園は、異様な熱気に包まれていた。私はこの日、この時間に合わせ、パリの方々を巡っていた。そして西陽が強くなってきた頃合いに、ファンゾーンのあるエッフェル塔下に向かった。
メトロを降りると、辺りは騒然としていた。シャン・ド・マルス公園の入口に向かって、長い列ができている。公園は何ヶ所かある入口以外は封鎖され、入口では丹念に検問が行われていた。列はどんどん伸びて行く。しかし合理的な彼らフランス人たちは、空いているスペースを見つけると、どんどん前に進んで行く。
パリでのフランス戦だけあって、やはり人出が凄い。顔にトリコロールを塗っている者、体がすっぽり隠れてしまうくらいの大きなフランス国旗をまとっている者、それぞれがお喋りに興じながら、歩を進めていた。
会場に入ると、大小さまざまなビジョンがあり、グッズショップや子どもの遊び場、フードやドリンクを提供する店があちこちにあった。飲み食いをする場合はカードを購入する必要があった。このカードは大会期間中フランス国内のどの会場でも利用できるファンゾーン専用のプリペイドカードで、予め使う分だけ入金しておけばよかった。
会場はエッフェル塔に向かって縦に長く伸びていた。途中に大きめのビジョンがあり、さらに奥により大きなスペースと、果てには巨大ビジョンが塔の下で睥睨している。試合開始十分前には、巨大ビジョンのある広場は後ろの方まで人で埋まって行った。
私は最前列の角に陣取った。前ではビジョンの下で、報道陣のカメラが熱狂の観衆に対峙している。つまり私のいる位置からは、ビジョンと報道カメラと熱狂の渦が一目に捉えることができた。肝心のビジョンは斜めから見上げる形でやや見にくかったが、場内の熱狂をダイレクトに体感するには絶好の場所と言えた。それに端のこの位置なら、砂埃やワインなどの液体が飛んでくることも少ないと思われた。
レ・ブルーの選手がピッチに登場し、トリコロールの応援スタンドが大写しにされると、いよいよファンゾーンの観衆のボルテージも上がって行った。
試合は一進一退、内容ではドイツ優勢の時間も多かったが、やや決め手に欠いていた。そんな中、ハーフタイムが近づくとフランスが猛攻。相手のハンドを誘いPKに。これをグリーズマンが決めてフランスが先制。
この瞬間、ファンゾーンは興奮の坩堝と化した。雄叫びとともに、辺りは砂が舞い、何やらいろんな物が頭上を飛び交っている。ワインなどの液体ばかりか、得体の知れない固形物も飛んでいる。最前列の角の私の位置からは、これら情景がいちめんに見渡せた。砂塵で向こうの方は烟っている。
ハーフタイムに入ると、報道陣のカメラに観衆が群がり出した。カメラに向かってヒャッハーしている。これはいい瞬間だとばかりに、私は報道カメラの後ろに回って、この様子を激写。熱狂ぶりがよく伝わる一枚だ。
そうこうしているうちに後半に突入。72分にはGKの弾いたルーズボールにすかさず反応したグリーズマンが足の裏で押し込み、フランス追加点。場内は再び興奮の坩堝に。
気づけば空は暗くなり、ビジョンの眩い灯りが熱狂の観衆の姿を現していた。向こうの方はやはり砂塵で烟っている。そのうちに、あちらこちらで挙を突き上げ、歌い出した。無数のトリコロールの旗がゆらめいている。
そのまま2対0でフランスの勝利。眩いビジョンはスタジアムの熱狂を大写しにする。目がちかちかする。それに照らされている目の前の観衆も狂喜乱舞。ちょうど私の位置からは、左右の二つの熱狂が、パリの夜空の下で鳴り響いていた。
試合が終わると、シャン・ド・マルス公園の熱狂徒たちは、パリの街に放たれた。試合後の光景はさらに烈しかった。
まず度肝を抜かれたのは、会場から出る観衆である。出入口以外はすべて封鎖されているのだが、熱狂徒たちはこれを破った。前方で何人かが柵を押し上げている。すると堰を切ったように、彼らはそこに雪崩れ込んだ。黒山の人だかりが柵の下を一斉に潜り抜けて行くさまは、実に壮観な眺めである。私もこれに続いた。後方では気づいた警備隊員と一悶着あったようだが、すでに焼け石に水だった。
通りへ出ると、会場だけではない、カフェなど色々な場所で観戦していた別の熱狂徒たちも加わり、さらに大きなうねりとなって、パリの街を覆って行った。
私はラップ大通りを抜けて、アルマ橋へと向かっていた。途中、路地を横切る度に、エッフェル塔が姿を現した。間近に見上げるその塔は、トリコロールに彩られていた。
通りは人も車も、フランスの勝利に酔いしれている。私は今日起きたことは、生涯忘れることはないだろうと思った。ファンゾーンでの熱狂の渦も、その後の狂乱のパリの街も、その映像も音声も、私の深いところに刻まれるのに十分なものを持っていた。
アルマ橋を渡ると、セーヌ河越しにライトアップされたエッフェル塔が見えた。遊覧船の灯りが河波を映し、河岸の街灯は街路樹を映し、その向こうにトリコロールのエッフェルが、この熱狂の一日を表していた。私は少し足を止めて眺めていた。うっとりするような、一枚の絵がそこにあった。
帰りのメトロは、興奮醒めやらぬ群衆のホームに滑り込んできた。その時、警笛が鳴った。
♪プップップププ、ププププッププッ。
サッカーの応援でお馴染みのリズムを刻んで入線してきたのだった。
ホームの群衆は熱狂でそれに応える。自由の国フランスらしい、実に粋な計らいだった。運転士がこのような〝暴挙〟に出ることは、日本ではまず考えられない。それは、この熱狂の一日の締め括りに相応しい光景だった。