熱狂のユーロ2016中編④
ブザンソンは静かな町である。毎年9月にこの町で開催される国際音楽祭は指揮者の登竜門としても名高く、日本からも小澤征爾や佐渡裕などがここから世界に羽ばたいて行った。そんな町に相応しく、街を囲むように流れるドゥー川も、川辺の街灯も、街を走るトラムも、道行く人も、どこか落ち着いた風情を醸し出している。
私がブザンソンを訪れた目的はサッカー観戦ではなかった。ツールドフランスなどで見るこの地方の風土と、アルク・エ・スナンの王立製塩所やル・コルビュジエのロンシャン礼拝堂といったユニークな建築をこの目で見るために、どうしても寄らなければならない場所だった。
とはいっても6月27日のこの日は、ベスト16の最後の二試合が組まれていたので、観光は夕方までに済ませ、六時には街のバーに繰り出した。
ドゥー川のほとりにあるホテルの目の前から、旧市街のメインストリートは続いている。
ホテルの前の広場では、紳士淑女がゆったりと夕方のひとときを過ごしていた。どう見てもサッカー観戦といった感じではない。もちろんTVは広場に出しておらず、店の中のそれもサッカーを映してはいない。
繁華街の路地を方々隈なく探ってみたが、それらしきものは見当たらない。ようやく場末にあるバーを見つけた時には、試合は始まろうとしていた。
開催都市ではないにしても、これまでに見てきた南仏の街とはまったく違うところに来た感があった。静寂の町ブザンソンは、少なくともスポーツ観戦で訪れる町ではなさそうである。
さて、本日の試合、まずはイタリアースペイン。前回大会の決勝カードがベスト16で実現。前回決勝は4対0でスペインが完勝し、ユーロ連覇を達成している。間のW杯も含めて、国際大会三連覇のスペインとそのサッカーが世界を席巻した訳だが、二年前のW杯ではグループリーグ敗退となっている。スペインが誇る〝ティキ・タカ〟は、以前ほどは世界に通用しなくなっていた。
ゾーンによる組織的な守備が主流だった2008年の時点では、彼らのサッカーは見事に相手の裏をかいていた。相手陣内でボールを動かしながら機会を窺い、相手の守備に綻びが生じた瞬間に一気にテンポアップしてゴールを狙う。チャンスメイクを急がないサッカーなので、相手ボールになるリスクは少ない。攻撃時の動きやポジショニングに無理がないので、奪われてもそのまま囲い込んで即時回収できる。
得点力がやや減少した2010年以降も、このサッカーは変わらない。むしろこの攻撃サッカーは、守備に活きた。一点でも得点すれば、相手陣内でのポゼッションが最大の守備となる。アプローチこそ真逆だが、サッカージャーナリストの西部謙司氏の言葉を借りれば、カテナチオのようなポゼッションサッカーを彼らは演じていた。
しかしなかなか得点できなくても前でボールを回せているうちはいいが、それもできなくなると辛くなる。後ろで守ってしまっては、彼らの強みは活かせない。二年前の2014W杯での惨敗以降、彼らの復調の道筋は見えていない。彼ら自身の高齢化もあるが、それだけではなさそうだ。
2008年の時点では、それまでの守備戦術に、スペイン代表の攻撃サッカーは風穴を開けた。しかしこれが世界モデルとなって数年、確実に世界情勢は変化した。気づけば彼らは以前ほど余裕をもって相手陣内でボールを回せなくなり、ロストした時には即時回収できる態勢にない。スペインのサッカーの生命線は素早いボール奪取に他ならないので、ここが上手くいかないと悪循環に陥る。観ている方も悶々とした90分を過ごすことになる。前置きが長くなったが、ブザンソンの旧市街の場末のバーで観た試合も、そんな不安が的中することとなった。
スペインがボールを支配する。イタリアは守ってカウンターを狙う。大方が予想した内容は、蓋を開けてみれば開始からまったく違う展開となった。
主導権を握って前に出たのはイタリアの方だった。ボールを奪えないスペインは守勢に回る時間が長くなる。多くの決定機を作るイタリアに対して、スペインはパスが繋がらず自分たちのリズムを作れない。そんな中イタリアが先制する。33分、FKの後のこぼれ球をキエッリーニが押し込みゴール。
後半に入ると少しずつスペインは〝らしさ〟を取り戻すが決め切れない。さらに、前線のターゲットであるアドゥリスが怪我により交代。ポゼッションに長けたチームの中で異彩を放つ得点源の退場は、このチームをさらなる窮地に追い込むこととなった。
試合はアディショナル・タイムに入っていた。DFのピケがゴール前に上がらなければならなくなるほど、スペインは追い詰められていた。ホイッスルまでに、一点が欲しい。
そして試合最終盤、全体が前がかりとなる中、それは起きた。それもポゼッションの代名詞とも言える国と、元祖カテナチオの国との一戦で。イタリアの鋭いカウンターからの一撃は、鮮やかに相手ゴールを突き刺したのである。
イタリアにとっては見事な勝利だった。準々決勝の相手はドイツである。スペインのユーロ三連覇の夢は、ここに終わった。私にとってもトゥールーズでの第一戦のチェコ戦から追い続けていたチームが、ここに終わった。失意のまま私は店を後にした。
街はちょうど夕食時でそれなりに賑ってはいたが、観戦の盛り上がりはどこからも感じられなかった。
その時、珍妙なバイクの一団が通り過ぎて行った。彼らは大きなイタリア国旗を身に纏っていた。ユーロの喧噪とはほとんど関係のない静かな街の空に、彼らの鳴らすクラクションが谺していた。
ホテルに帰り、本日最後の試合はイングランドーアイスランド。この一戦でベスト8の顔触れが決まる。
イングランドは言わずと知れたフットボールの母国であり、国際大会出場も数多い。一方のアイスランドはユーロ本大会出場、W杯も含めて国際舞台とは縁がなかった。
それもそのはずで、ノルウェーとグリーンランドの間に位置するアイスランドは、一年の半分は氷点下という極寒の気候で、芝でプレーできるのは夏だけという過酷な環境にある。屋内での練習環境が整備されてきたのは、ここ15年くらいの間である。
自国にプロリーグがないアイスランドの選手が子どもの頃から観てきたのは、イングランド・プレミアリーグの選手だった。彼らにとってはまさに夢の対戦相手である。ここまで勝ち上がっただけでも十分凄いことだが、夢の相手を向こうに回して、この後さらなるサプライズを彼らは演出することになる。
試合はまずイングランドが先制する。前半4分。スタリッジからのパスで抜け出したスターリングを相手GKが倒してしまいPKに。これを大黒柱ルーニーが決める。
これでイングランドのペースで試合が進むかと思われたが、僅か2分後の6分、試合は振り出しに戻る。アイスランドは得意のロングスローからカウリ・アウルナソンが頭に当て、コースが変わったところにタイミングよく飛び込んだラグナル・シグルズソンが押し込みゴール。スローインの選手も頭で当てた選手もゴールした選手も誰一人として知らないが、見事な連携である。しかし好運にも見えるこの形は、彼らの用意された得意な形でもあった。
18分、アイスランドは逆転する。右サイドから斜め前方への鋭いパスをギルフィ・シグルズソンがダイレクトで前線へ。これをコルベイン・シグソールソンがシュート。何やら訳が判らなくなってきたが、強い軌道を描いたボールは、相手GKの手を掠めながらも、ゴールに吸い込まれて行った。
イングランドは後半開始からウイルシャー、その後もヴァーディーを投入し攻勢を強めるが、アイスランドの一体となった守備がこれを懸命に防いで行く。相手のサイド攻撃も正面突彼もCKも、最後の最後まで全員で守り抜いたアイスランド。
そして、笛は吹かれた。その瞬間、アイスランドの選手たちは喜びを爆発させる。ピッチ上にうずくまるイングランドの選手たちを尻目に、一目散にサポーターのいるスタンドに向かって駆けて行く。
この画然たる明暗は、世界中のあらゆるカテゴリーの試合後に往々にして見る光景だが、それがイングランドとアイスランドとの間に起きた。まさにジャイアント・キリングを象徴するような試合となった。
しばらくすると、スタンドのサポーターと一体となった儀式が始まった。掛け声とともに大きく拡げた手を拍つ。拍手はどんどんテンポアップして行く。バイキング・クラップと呼ばれるこの儀式は、今大会の名物となりつつある。
これでベスト8はすべて出揃った。そしてこの観戦記はいつ終わるのだろう。
まだまだ、ここからが佳境である。