マネのパリ④
私はパッシー墓地にいた。パリで墓地といえば、東にあるペール・ラシェーズや、モンマルトル、モンパルナスなどが知られているが、中心部のシャイヨ宮からほど近いこの墓地も、古くから知られる墓地である。
メトロでトロカデロ駅を降りるとすぐに、目指す墓地はあった。この墓地に、マネは眠っている。
入口から進むと、15の区画で示された地図がある。事前に凡その位置は調べてあり、その区画に進む。辺りを少し探すと、それは不意に目の前に現れた。
EDOUARD MANET 1832-1883
円柱形の墓標の上に、マネの胸像がある。下にはマネの弟のウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾの墓もある。マネの絵のモデルでもあったモリゾは、その弟に嫁いだことで、マネと同じ墓に入ることができた。
麗らかな陽の下で、時折吹く心地いい風を浴びながら、私はしばらく目を瞑っていた。
「草上の昼食」、「オランピア」と、一躍スキャンダラスな存在として名を馳せたマネだが、本人はそうした画家人生を望んだ訳ではなかった。むしろ伝統的なサロンで認められることをひたすらに希った。
マネはパリの中心部の良家に生まれた生粋のパリジャンで、社交の場でも洗練された、魅力的な人物だったと言われる。絵にもそんな雰囲気は出ている。しかし身につけているものとは裏腹に、その絵に孕まれた近代性は、好むと好まざるとに拘らず彼を異端の画家にした。
マネの絵は常に、非難や嘲笑にさらされた。しかしやがて時代は彼をスタンダードな画家にして行く。後に続く画家は口を揃えて言う。マネからすべてが始まったのだ、と。
パッシー墓地には、他には作曲家のドビュッシーの墓もあったので、こちらも訪れた。
黒い墓石は麗らかな陽を浴びて、私の前に置かれてある。手を合わせていると、期せずして「月の光」が頭を流れた。本当に不思議なもので、何の考えもなしにふと浮かんだのである。ピアノの旋律の美しいこの曲を私は口ずさみながら、もう一度、マネの前で手を合わせ、パッシー墓地を後にした。
マネの生家は、パリのど真ん中のセーヌ河岸の一等地にある。対岸にはルーブル美術館があり、周囲には国立美術学校やフランス学士院などがある、今も昔も格調高いエリアである。父は法務省の高級官僚であり、厳格な家庭の長男として生まれたマネは、当然のように画家になるのは反対される。この辺はよくありがちな話である。
それでも紆余曲折を経て、トマ・クチュールのアトリエに通いながら、ルーブル美術館で伝統的な名画の模写に励む。この時期のマネの作品はほとんど残ってない。マネ自身もあまり話したがらない。
しかし私はいつだったか、世田谷美術館の特別展でクチュールの絵を観た時、絵のタッチがマネに近いのを感じた。マネの絵は近代性を孕みながらも、ベースとして伝統絵画の気品を身につけている。その絵は観れば観るほどに、絵とはこいうものだと思わせてくれる。6年間の修行時代の下地は決して小さくはなかっただろう。
ルーブル美術館を出た先には、光溢れる空間がある。チュイルリー公園である。バティニョール街へ移るまでのマネにとって、この辺りは庭のようなものであり、毎日午後の時間はこの公園でスケッチなどして過ごした。
「チュイルリー公園の音楽会」でマネは、明るい光のなかに現代生活の情景を描いた。公園の野外音楽会の情景のなかに、マネ自身と仲間の画家、親交のあったボードレール、ゴーティエ、作曲家オッフェンバックといった社交界の面々が描かれる。現代生活の情景をここまで明るく描いた作品は当時はなく、この作品は印象派への道を拓くこととなる。
マネの生家やチュイルリー公園の傍を流れるセーヌ河。パリの郊外を含めその河畔は、印象派の絵の舞台となってきた。次は、中でもとりわけセーヌ河畔の情景を描いた、ある画家を追ってみたい。
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