地中海へ 〜南仏アラカルト〜 モンペリエ、ニーム
現地在住ガイドの高橋あゆみさんの案内で、私はモンペリエの名所を巡った。イメージ通りの街並みにくらくらしながら、コメディ広場を抜けて、気づけばアンティゴンという街区にいた。
そこは1980年前後、スペインの建築家リカルド・ボフィルによって造られた計画的な街区である。もっともモンペリエの旧市街の多くは、19世紀に造られた計画的な街区なので、コメディ広場を挟んで、新旧のデザインされた街区が展開していることになる。
アンティゴンを歩いていると、シュールレアリスムの世界に取り囲まれたような感覚がある。一連の建物は古典様式のようでいて、近未来風である。近未来といっても1980年当時の近未来なので、どこか古めかしさがある。かつての近未来を乗り越えた今、どこかに古めかしさを覚えながらも、未だ訪れない新しさもそこに見るという、昔のSF映画でも観ているような不思議な感覚になる。先刻見てきた南仏のイメージそのものの旧市街とは、好対照をなしている。
しばらく歩いて行くと大きな広場に出る。真ん中にサモトラケのニケ像があり、あたかも青空に向かって羽ばたこうとしている。視点の先には、シンボリックなガラス張りの直方体が屹立していた。広場から川を挟んだところにあるその建物は、ラングドック地方の行政機関らしい。
思わぬところで、強烈な絵面が出現した。古代彫刻の向こうに、ガラス張りの近未来建築。青空の下におけるその対比は絶妙で、それはモンペリエの街のイメージを表しているようにも見えた。
川沿いには建築家の藤本壮介氏が手がけた集合住宅が、当時は建設中だった。「白い木」と名付けられたそれは、19年夏に竣工した。
丸いのっぺりとした形状に、各戸のバルコニーの床板が外壁から多方面に大きく突き出ていて、見たところ、巨大なオブジェである。明るいモンペリエの気候に合わせて、各戸にテラスを用意したとのこと。日本人建築家によるその建築は、モンペリエの新しい景観となっている。
トラムに乗り、旧市街を抜けて街の反対側へ。そこには、小さな凱旋門がある。門の向こうには旧市街が続き、いかにもモンペリエの入口という感じのセンスのよさがあった。反対側の公園を抜けて行くと、まず目に飛び込んでくるのが太陽王、ルイ14世の騎馬像である。台座が高く、見上げると青空の中で進軍のポーズを取っている。さらに進んだ小高いところに、給水塔がある。
私はそこまで来た時、ある予感が走った。モンペリエのイメージの一つとして、私の脳裡には水道橋があった。果たして給水塔に上ると、思い描いた通りの水道橋が、視界の遠くまで続いていた。しかしスケールの大きい、絵になる光景であるにも関わらず、人はあまり見当たらない。風景に似合わず閑散としている。
高さ22m、長さ900mに及ぶ水道橋が建造されたのは18世紀のことで、実は古代ローマ時代の遺跡ではない。モンペリエが歴史上に初めて登場するのは985年のことらしく、古代遺跡が点在する隣のニームなどに較べれば新しい街である。つまりモンペリエには、世界遺産になるような呼び物がないのである。
しかしそれだけに、この街に生きる人の街への熱意が、幾世代に亘って街を造ってきたと言えるのではないか。古代風の水道橋から近未来風のアンティゴンまで、振り幅のあるモニュメントのデザインとそのセンスは、現在この街に生きる人にも脈々と受け継がれているように思う。
最後に、来た道を戻り旧市街に少し入ったところに、あゆみさんは案内した。そこは私の知らないところだった。日本のガイドブックでは見たことがない。
小径を下りて行くと科学博物館があった。モンペリエ大学の医学部だったところである。13世紀創立のヨーロッパ最古の医学部で、これまでに錚々たるOBを輩出している。中にはラブレーやノストラダムスといった、世紀を超えた作家や預言者までが名を連ねている。博物館には、臓物の解剖展といった際どい内容の陳列品が並ぶこともあるらしい。
私たちはさらに進んで行った。ある時あゆみさんは立ち止まり、「ここが大聖堂、サン・ピエール大聖堂よ」と案内してくれたが、見上げるとそれは、とても大聖堂とは思えないものだった。目の前にはロケットのような門柱が並び、奥にはこれといって装飾のない塔が伸びている。大聖堂というよりは要塞である。
中に入るとあちこちに絵があり、祭壇に向かって席が並び、ステンドグラスから柔らかい光が差し込む、誰もがイメージする大聖堂の景色だった。創建は1367年。宗教戦争では損傷が激しかったものの、17世紀に再建され、現在に至っている。
外に出て、来た道を少し戻る。小径を上って振り返ったあゆみさんは、「モンペリエで好きな景色なの」と私に言った。大聖堂に向かう小径のアプローチには、光と陰のコントラストの中、行き交う人にも、漂う空気にも、緩やかな時間が流れていた。それは、「世界ふれあい街歩き」にあるような、ちょっといい裏路地の一コマだった。
ニームは訪れたい町の一つだった。駅から大通りを進んで行くと、ローマ遺跡のコロシアム、円形闘技場が見えてくる。フランスでも地中海岸の南仏には、古の廃墟が散在している。目の前の巨きな造形は、1800年以上の時を超えてこの地にある。その取り残された感じが却って、古代ローマの偉大さを表していた。
澄み渡る空の下、それはくっきりと浮かび上がっていた。造形のインパクトは凄まじいが、周りの道行く人も溶け込んでいて、実に絵になる光景である。何気なく止まっているバイクでさえも、絵を構成するスパイスとなっていた。闘技場は現在もコンサートなどのイベントで使われている。
さらに大通りを進むと突如現れるのが、メゾン・カレとカレ・ダールである。前者は古代ローマ神殿。後者は現代のガラス張り建築。これが見事に共存している。まったく違う時代の、まったく違う材質は、形態の調和により、互いの存在が互いを活かしている。
ローマを中心に、スペインや北アフリカなど地中海沿岸に散らばるローマ遺跡。中でもメゾン・カレは、最も保存状態がいいもののひとつとされている。列柱上部や天井などの装飾に、削れた部分はほとんど見当たらない。
メゾン・カレから、隣のカレ・ダールを見る。ガラスファサードの前で、細い鉄骨の列柱がリズミカルに走っている。目の前の石の列柱の向こうで、それは幾何学を表していた。重厚なリズムと軽快なリズムの鮮やかな対比は、見る者に建築の素晴らしさを教えてくれる。
ノーマン・フォスター建築のカレ・ダールは、内部も天井と柱以外の多くはガラスで構成される。むき出しのエレベーターとともに、空間に浮かぶ階段も透けていて、採光がモザイクのようになっていた。
こちらには観光客はほとんど入らない。地域住民のための文化施設となっている。がらんとした中央の吹き抜け空間から、見上げた先には現代美術館があり、見下ろせば図書館になっていた。
私にとってここで最も印象深かった思い出は、奇想天外な現代美術でも、フランス語で書かれた芸術本でもなかった。エレベーターから降りる瞬間、待っていたフランス人に「オー、ジャポネ!」と、唐突に言われたことである。
多くの人種を瞬時に捌く観光案内所なら、こちらが言葉を発する前から仕草や雰囲気などで看破する。しかしこの場合は通りすがりのフランス人で、こちらの言葉はもちろん、仕草も雰囲気も何もない。エレベーター開きざまのジャポネ!は驚いたし、感動すら覚えた。こういうところに出入りする人には親日家が多いのか、その言い方には親愛の情が感じられなくもなかった。
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