「役に立つ、役に立たない」なんてどちらでもよくて、「みんな善で、みんな悪」というような思考方法が大切な気がする。
さて、今日は「役に立つ」について書こうと思います。
最近、連日のようにあちこちから新規の来客があり、新しい視点や文脈からの情報を受けとる機会が多く、日々、刺激的なコミュニケーションを楽しませてもらっています。
その中で、「人の役に立つことをしたい」というお話を聞かせていただく機会が何度かあって、「おお〜っ!!とても立派だな~」と尊敬の気持ちが一杯になった一方で、「人の役に立つという気持ちが動機の核になりすぎてしまうことによる弊害はないか??」というようなことが気になってしまったことから、今回は「役に立つ」ということについて考えてみました。
僕がなぜ、「役に立つ」が動機の核になりすぎるのは……… と考えるのかというと、「役に立つ」って、エネルギーを注ぐポイントの判別がとても難解で複雑な概念だと思っているからです。
(外的要因や環境因子による変数が僕には高すぎるってことなんですが、下記にもう少し詳しく説明しますね)
まぁ、僕がただ単にそういうことをうまく処理しながら進んでいけない不器用なやつなのかもしれませんし、それが動機の核となることに良いも悪いもないと思うので、これは個人的な思いの話でしかありませんが、僕は、自分の内側から燃え上がるものが動機の核になっていた方がエネルギーを出しやすいと感じていますし、行動そのものを楽しみやすい&継続もしやすいと思っています。
(エネルギーの注ぎ所を自分次第で設定しやすいので。)
やっぱり何事も継続し続けられるってとても重要だと思うので、僕の場合、自分の力の入れ所をシンプルに理解しやすくするという行為は、物事を進めていく上でとても大切なものです。
「これがやりたいからやる」みたいなシンプルなルールを作るってことですね。
で、「なぜ僕が「役に立つ」を複雑だと考えるに至ったか??」ですが、その理由はなんとなく自分の中で整理ができています。
まず、少年〜青年期に、親や先生にことあるごとに言われた「人の役に立つことをしなさい」という言葉の影響は大きそうです。
僕はそれにめちゃくちゃ違和感を覚えていて、「役に立てていないと感じてしまうような人が居場所をなくしてしまい兼ねない二元論的な考えだな。」などと思っていました。
良いか悪いかのどちらかでしか判断されないことに違和感を覚えるような感じですね。
もちろん、言っている側にそんなつもりもないでしょうし、良かれと思って言ってくださっていたケースも多かったとは思いますが、「そうしないと成功しないよ」、とか「そうしないと幸せになれないよ」、みたいなことを言う方もいたことからか、その言葉の本質的な意味をうまく受け入れるのが難しいと感じた記憶を持っています。
また、こういうのって、立場や文脈なども複雑に絡み合うものなので、「こっちの人には役に立つことでも、あっちの人にとってはかえって迷惑になってしまうこともあるでしょ??」などということを考えてしまうと、一方的な「役に立てることをしなさい!!」という言葉は、僕の心を迷宮入りさせるための呪文のように聞こえていたりもしました(笑)
その一方で全然違う先生からは、「役に立つ、立たないは置いておいて、まずは好きなこと、得意なことを見つけなさい」と言われたりもして、ここにも大きな矛盾を感じたものです。
「好きなことを追求したら、どうにも人の役に立てなそうだし、人の役に立とうとすると自分の好きなことやっていてもおそらくダメだろうし…」と悶々としてしまうような感じです(笑)
上司の指示と会社のマニュアルが違う二律背反のような状態に近いものとでも言いましょうか。そんな風に感じていました。
もちろん、人によっては、「自分の出来ることをやっていった結果、人の役に立てるような存在として輝けることの尊さ」を、ナチュラルな視点で教えてくれていたのかもしれませんが、当時の僕の理解力ではそういう情報の拾い方をすることができませんでした。
とまぁ、そのような感じで「役に立つ」とあれこれと向き合っていった結果、「考えれば考えるほど複雑な概念だから、行動の目的に設定しすぎるとかえって混乱してしまいそうだし、物事を楽しめなくなりそう」、と思うようになっていったということですね。
で、冒頭のような感情を抱くようになったという感じです。
僕は、人の役に立てたらそりゃめちゃくちゃ嬉しいと思っていますが、上記のようなこともあり、役に立とうということを大大大前提として行動をおこすことはこれからもできそうにはないなと思っています。
外側から求められることに従いすぎず、なるべく己の内側から湧き上がるものに従って生きていき、その結果を受け、その後の思考や行動を調整し続けていくことしかできないのだろうと思っていますし、そういうのがナチュラルでいいなと思っています。
これも私感ですが、良いものだ、悪いものだとか、役にたつものだ、そうでないものだ、と、先に決めてのぞむからその先に色々とバグが生じてしまうような気がして、期待やバイアスって、フラットに物事をみるうえでなるべく無くせたらよいものなのだろうと考えています。
優劣のない世界を創造する上でも、善悪のような二元論的な概念は、足枷になることが多いような気がしますしね。
といっても、善悪を定めないとかえって混乱することもあるでしょうから、それはそれでめちゃ難なんでしょうけれど…。
とっ散らかりましたが、最後に、今日書きたかったことをまとめると、
◼️役に立つ立たないは目的化できるほど単純ではないから、僕にはそれを動機の核にできる力は備わっていない。
◼️「先に決めつけずに物事をなるべくフラットに見ようとすること」、「どんなもの、ことにも必ず何かしらの価値がある」、ということにフォーカスすることは、とても大切なことなのだろうと思う。
◼️役に立てていない生物なんておそらく存在しないのだろうと思うし、みんな善だし、みんな悪、という思考方法が大切なような気がする。
というような感じですかね。
長文をお読みくださりありがとうございました。