地球に優しいという言葉への違和感について。
今日は環境ワードについてのことを書きます。
最近、一部の企業やブランドの間でサステナブルや地球に優しいというような言い回しを避けるという動きがでてきている、ということを紹介している記事を見ました。
以前、アメリカの『Allure』というメディアが「“地球に優しい” “環境に優しい” “エコフレンドリー” “生分解性” といった表現の使用を禁止にする」というようなことを発表していましたが、それと同じような文脈なのでしょうか。
Allureが何故その手の表現を禁止しているのかを紹介している記事の一文を下記に引用しますね。
多くのプラスチック容器がリサイクル可能ではあるものの、実際には9%ほどしかリサイクルされていないという調査報告をもとに、「Recyclable plastics(リサイクルが可能なプラスチック)」という言葉の使用をやめるとしています。また、「Biodegradable(生分解性)」「Compostable(堆肥化が可能)」といった、その定義の曖昧さやばらつきのために本当に環境負荷を削減できているか疑わしい“グリーンウォッシュ”につながりかねない表現も使わないと表明しました。
さらに、「地球にやさしい(Earth-Friendly)」という言い回しに至っては、「そのようなパッケージが存在しない限り」使わないと皮肉たっぷりに使用をやめると宣言しました。
確かに、環境活動や自然活動って定義が曖昧で実体がよく分からないものも多いような気もするので、そのような考えに至る気持ちも分からなくもありません。
今回のお話も、Allure と同じような感じで考えるようになっている企業やブランドが様々な所で出てきていたりするのかな??と想像を巡らせています。
少し調べてみると、ファッション誌VOGUEやファッションブランドのDôenが上記例に該当するような考えを示しているようなことを取り上げている記事を見つけましたが、これらの企業はどういう経緯でそのようになっていったのでしょうか?
事業を通して環境活動をしていたら、「いやいや、これって本当に環境負荷を削減できているの??」というような、実践してみて初めて分かった我慢ならない矛盾でも感じたのでしょうか??
僕には細かい理由はよく分かりませんが、いずれにせよ、環境系のコミュニケーションに新しい動きや感情が生まれている事実があるということに大変興味ぶかいものを覚えています。
世の中の正義や正しいことの定義に絶対的なものは存在しないと思いますし、眺める視点や立場によっても正義は人それぞれでその姿を変えますから、もはや世の中の全てが曖昧なものに見えてしまったりもしますが、それを考えれば考えるほど、「曖昧でなく矛盾のない人間活動って一体なんだろうな??」などというような、終わりのない問いが頭の中をグルグルと回ります。
正義って難しいですね。本当。
僕自身も「人が地球に優しくする」という表現方法については少し違和感を覚えるので、基本的にそういう言い回しを使うことはありませんが、もしこれが「人が地球に優しくしてもらうための最善の方法を考える」という表現だったら使うこともできそうかな?? などと考えてしまったりして。
表現方法も難しいですね。本当。
と、色々と考えても結局はよく分からないことだらけですが、一つだけ分かっていることは、地球も自然も僕の大先生だということは間違いないということです。
それを考えると、「大先生を命をかけて守りたいから、そのために我々が何をするべきかを考えたい」というような思いで環境問題と向き合うのであれば、「地球に優しく」という表現方法よりは違和感を感じることも少ないのかもしれません。
結局の所、僕の個人的な思いとしては、人間の奢りのような主張になってしまっているのが嫌なのだろうと思いますが、そんなことを言っても、やっぱりマクロで物事を見ることはとても難しいことですし、経済学でいう合成の誤謬のようなことは、人の社会ではどうしても頻繁に起こってしまうものですから、ミクロな視点や人の都合ベースで物事が巻き起こることに対し、一定の納得感も覚えたりもします。
そういうことを言い出してしまうと、この手の違和感なんて考えれば考えるだけ無駄なのかもしれませんが、自分が何に違和感を覚えるのかを突き詰めること自体には意味はあると僕は考えています。
自分のことって知っているようで全然知りませんから、自分の感情をもっと知りたいですしね。
自分が何に違和感を感じるのかを知り、その違和感を遠ざけたり、解消する術をひたすらに考え続けたいものだな〜と思います。
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