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床板の記憶

音楽や食べ物によって特定の記憶を思い出すことが誰しもあると思う。場所もまたそんなスイッチになることがある。決まった場所に行くと、特定の記憶の時間にふっと飛んでしまうようなことが。
あらゆる喜怒哀楽が染み込み居心地を良くも悪くもしている僕らの手作りの販売店舗も、やはりそんな場所だ。
元々農協の支所だったその建物は、すだれで隠しているメガネ顔のマスオさんのシールに、かろうじて当時の面影を残している。

彼が僕の弟子になりたいと言ってきたのは、2010年の夏のことだった。
大学を出て間もない彼は、色白で痩せ型、黒縁のメガネがいかにもひ弱そうな印象を際立たせていた。
かまど炊きの豆腐屋は、想像を絶する重労働である。
「悪いけど、給料払えるような店じゃないから、ごめんね」
嘘ではなかったが、その体つきでは到底無理だと決めつけていたことは伏していた。
だが、「給料はいらないから働きたい」という頑固な申し出に、最後は僕が根負けした。

予想に反して、彼はみるみるうちに仕事を覚えた。器用で、頭がいい。
秋にはすっかり右腕になっていた。
僕は明らかに助かっていたが、師匠風を吹かせたくて、そんな態度は微塵も見せなかった。できたことは褒めず、あらを探しては叱りつけた。

労働基準法無視で働かせた。
僕は工場に泊まり込んでいる。
彼は深夜0時ごろにやってくる。言い付けられた通り、豆を洗ってはまた家に戻る。
凍てつく寒さだ。
豆を洗う作業の音を暖かい布団の中で聞く。
朝はまた5時か6時には出勤してくる。
僕は小さなミスを見つけては叱る。
そんな毎日だ。

世間は年末年始休みに入った。
どこの家にも家族の団欒が目に浮かぶ明るい灯が灯っている。
向かいの消防団の詰所では、団員達が分厚いジャンパーを着てもまだ凍えながらタバコを吸っていた。
僕は、新店舗を来春オープンさせるために、彼を床張り工事に駆り出していた。まだ明るいうちから始めたが、時計は午前0時に近づいてくる。
彼の顔には、明らかに疲弊と不満の表情が浮かんでいるが、僕は構いもしない。
日付が変わる頃、床は張り終えられた。

夏に輝いていた彼の目は、季節が入れ替わり、すっかり曇ってどんよりとしていた。

午後は、僕が配達に出ている間に、彼が翌日の仕事の準備をするのが日課だった。
その日も僕は帰ってきてから、いつも通り彼の仕事ぶりをチェックした。
釜に入っているはずの水が入っていない。バケツはそのまま置かれている。
翌朝、出勤してきた彼に、開口一番僕は言い放った。
「頼んだこともやらないようなやる気のないやつは辞めていい」
見下ろすと、彼はうつむいた。
肩が震えているようにも見える。
言葉は発しなかった。

次の日から、工場に彼の姿はなかった。
僕の仕事量は倍になった。
仕事はやってもやっても終わらなかった。
僕の心の中は恨み節でいっぱいだった。
世の中は未曾有の大震災で大騒ぎなことは知っていたが、僕は自分のことで精一杯だった。

年月が過ぎた。
新店舗と言っていた店に下げた真っ白な暖簾は、豆腐のように少し黄色みがかっている。
恨み節は、後悔と懺悔に変わっていた。
店は、東に山を背負っているが、窓が多いおかげか、陽が差してポカポカと暖かい。
ふいに戸が開くと、そこには変わらない彼の顔があった。
時が止まった。
一瞬言葉が出てこない。
すぐに堰を切ったようになった。
「あの時は、本当に済まなかった。一番大変な時に手伝ってくれて、本当にありがとう。君がいなければこの店もできていなかった」
恐る恐る見上げると、彼は涼しげな笑顔を浮かべていた。
「あの頃のことはたまに思い出しますけど、楽しかったし、いい勉強になりました」
相変わらずの色白で、体は痩せていたが、いくぶんたくましく見えた。
床板の柿渋は、すっかり色褪せていた。







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