父の手
よく晴れた六月の日曜日、僕は妻と娘とともに、介護施設から退所したばかりの父を迎えて、僕が幼少時代を過ごした諏訪へ出かけた。
父と会うのは一年ぶりだった。
一年前、父は徘徊を繰り返した。夕方になると家を飛び出して黙々と歩いた。心配で、僕や母はよく街中を探し歩いた。警察のお世話になることもあった。
「きちんと家で見ていてください」
世間は理解してくれなかった。力が強く、とても止められるものではない。止めようとすると猛烈に怒り暴力をふるう父に、母の心は限界を迎えていた。
介護施設に預けるという母の選択はやむを得ないと僕も納得した。入所するにはワクチンを打たなければならないことが最後まで引っかかった。かといって、自分で世話することもできず、唇をかんだ。
施設では、感染症予防のために面会は禁止されていた。なぜ家族同士が会えないのかという憤りも、時とともに薄れた。心配ではあったが、突然携帯が鳴って父を探しに行かなければならないストレスはなくなった。何より母が怒ったり泣いたりする姿を見なくてよくなった。
入所して一年近くが過ぎた頃、空きが出て公営の大きな施設に移った。新しい環境に落ちつかなかったのか、父は問題行動を繰り返し、追い出された。介護施設で見放された認知症老人の行き着く先は精神病院だった。院長は言った。
「もっと早くに逝っておけばこんなことにならなかったのに。身体拘束が嫌なら家で見てください」
母からその話を聞いた時には、自分の耳を疑った。
「姨捨山に捨てるような気もする」
つぶやく母の気持ちは痛いほど分かったが、僕らに選択肢はなかった。
それでも、最後に少しでも家に帰してやりたい、という母や妹の意向で、精神病院に入院する前に帰宅が叶った。
一年ぶりに家に帰ってきた父のやせ細った姿に驚いた。黙々と歩いていたのが嘘のように動作は緩慢になっていた。嬉しさが隠せない父は、仏様のような笑顔を浮かべて、おどけた仕草で記念写真のカメラに収まっていた。
諏訪湖畔の公園で持参したお昼を食べた後、反対岸のほとりにある足湯に行った。
教室くらいのスペースに、湯船が逆さのL字型に配置されている。四、五人が先に入っていた。僕は湯船の右端の方に妻と隣り合わせに座って、お湯に足をつけた。ほどよい温度のお湯が気持ちいい。小学校に上がってまもない娘は、妻の向かいで短い足をどうにかお湯に伸ばしている。入るのを嫌がった父は、僕の正面方向にあるコンクリートに腰を下ろしていた。
ふいに父は歌い始めた。野外だが、屋根がかかっているせいか反響する。僕の左側に座っている若いカップルは、鼻歌にしては大きすぎるくらいに調子が乗ってきた歌声の主を探してキョロキョロしている。僕らは顔を見合わせてクスっと笑った。
伸びやかでよく響く声だ。まだこんな声が出るんだ、と驚いた。筋肉が落ちて表情があまり動かなくなった顔でも、父が気持ちよく歌っていることはよく分かった。
振り返ると諏訪湖が広がっている。視界が良く、向こう岸の建物までよく見える。日差しがたっぷりと降り注いでいる。一人でランニングをする人。連れ添ってウォーキングをするご夫婦。家族連れが目の前の歩道を横切っていく。梅雨入り前の休日を湖畔で過ごす人々は、みな幸せそうに見えた。
父の歌は止まらない。昔から歌が好きな人だった。僕が小学校二年生までを過ごした家は、反対岸に見えているドーム状の建物から歩いてすぐのところだった。仕事人間だった父に遊んでもらった記憶はあまりない。けれど、行事ごとは好きで家族を喜ばせてくれた。県外からもたくさんの見物客が訪れる湖上花火大会もベランダから見ることができる近さなのに、父は張り切って家族を湖畔まで連れて行った。僕と母と妹を置いてさっさと先を歩く父の背中を、頑張って追いかけた。湖畔の芝生に座って、「たーまやー!」と声を上げる父の楽しそうな横顔は、花火で照らされていた。焼酎の匂いが漂っていた。夜空を埋めつくす色とりどりの花火。お腹にズドンと響く鉄砲のような音。
歌が止まったことにはっとして振り返ると、父は立ち上がって歩き始めていた。慌てて僕はお湯から足を抜いて追いかける。
「どこ行くの?」
振り返りもしない。急いでタオルで足を拭いて靴を履き、後を追った。よぼよぼと足を引きずっている老人にはたやすく追い着いた。
「トイレはどこだ?」
「あぁトイレに行きたいんだ。ちょっと遠いけど歩ける?」
「おう」
僕は妻に声をかけて父を支えながら近くの建物まで誘導した。老いた父に体を密着させるのはどうも落ち着かない。が、歩みはなかなか進んでくれない。ようやくたどり着いた入口に四段の階段が見えて、僕は舌打ちをした。右手は手すりにつかまらせて、僕は左腕を支えながら一段ずつ上る。最後の段は僕が先に上り、左手を引いた。昔のままの分厚く大きな手だった。
家までの帰路、父を助手席に乗せて運転した。以前は隣で口うるさく運転の指導をした父は、今はただ意味不明な話を繰り返している。話に合わせてタイミングよく相槌を打つと、父は楽しそうに話した。人はみな父が何も分かっていないと思っているが、僕にはすべて分かっているように思えた。
途中で、話をしている相手が息子だと分からなくなってしまい、丁寧な口調に変わる。症状が進行してからも僕のことは認識できていたが、一年の隔たりはそれすらも奪ったことを僕は噛み締める。
家に帰り着くと、母が出迎えた。
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
そう言って危なっかしい動作で車を降りる父に、
「今度またどっか行こうよ」
と声をかけた。
「おう」
父親の口調に戻っていた。
精神病院でも面会は禁じられていた。入院してほどなく、歩けなくなった、ものが食べられなくなった、という情報だけは入ってきた。ちょっと前に湖畔でおにぎりを頬張っていた人が、急にそんなに衰えるものか!怒りをぶつける先はなかった。
ガラス越しの面会が解禁された時、一度だけ面会に行った。僕はガラスの向こうでベッドに横たわっている老人が自分の父親だとは、にわかに信じられなかった。
頬骨が突き出るほど痩せこけた青白い顔。口は開かれたまま。目はうつろでどこを見ているのか分からない。体はベッドにくくられ、大きな手よりもまだ大きなミトンがはめられている。かすかに動いている口からはか細い声が漏れているのかもしれないが、分厚いガラス扉に遮られて僕の耳には届かない。
病院への足が遠のいているうちに、また面会は禁止された。
秋が次第に深まってきた夜、僕は亡骸の父と対面していた。
十畳ほどのこじんまりとした葬儀場の安置室の上座に寝かされている。父が好きだったからと病院で着せてもらった黒いスーツは、痩せこけた体には似合っていなかった。目は半分開いている。歩けなくなった足は、がい骨のように筋肉が削げ落ちていた。安らかな顔とは言いがたい。後ろの棚に飾ってある家族写真から切り抜いた遺影のおどけた笑顔とは対照的だ。
僕はコンビニで買ってきたワンカップの焼酎を二本枕元に置いた。父の横にあぐらをかいて座り、二本とも蓋を開けて乾杯した。カチンと乾いた音がした。スーツの上から体をなでる。かたく冷たくなった頬をなでる。骨ばかりになった白く大きな手を握る。家族を養うために懸命に働いた手だった。右手の甲には見慣れたほくろがあった。
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