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時間を泳ぐ 2023/2/4


昨晩、大学時代の友人と三人で居酒屋で飲んだ。
以下、備忘録___

鰯料理をあつかう飲み屋で華金を満喫した。この店では南蛮漬けも天ぷらも竜田揚げも具材は鰯。日本人好みの味つけでどこか懐かしさがあった。とても美味しい。他にも鮮度の高い魚を取り扱っており、運ばれてくる品の数々は豊富な味の連続。中でも南蛮漬け、ピリ辛砂肝は私好みの味でおかわりしたくなった。ここは大学時代の友人の行き付けだったそうで、素材としての魚の可能性を広げてくれる素敵な飲み屋だった。

華金らしい華金を過ごしたのはいつぶりだろうか。もともと平日の仕事終わりは直帰することが多かったがコロナ以降は居酒屋に行く機会が輪をかけて減った。ここ最近は仕事も落ち着かず、パーっと夜の街に飲みに行くなんて選択肢は私の脳内にはなかったからそれだけに昨晩過ごした時間は私にとって新鮮だった。これぞ金曜日のアフター5。飲みの場を設けてくれた友人に感謝している。

気の置けない友人と過ごすお酒の場では“社会人“に擬態した仮の姿はもういらない。マフラーとジャケットをハンガーに掛け、掘りごたつに足を伸ばし一息つきながらネクタイを緩めるとき私は素の自分を取り戻す。振り逃げるように退社した代償は休日出勤という形で私に枷をかけるがテーブルに置かれた金色の一杯がまずは1週間の労をねぎらってくれる。

大学を卒業してもう5年近くが経つ。精神的にはあの頃と変わっているつもりはないし忘れているつもりもないが、やはり当時の話をすると懐かしい感覚にはなってしまう。ヒッチハイクをしたり海外へ旅に出たりといった話になるとワクワクと緊張が入り混じったあの気持ちを遠い記憶のどこかに放置してしまっていたことに気づく。毎日は地層のように積み重なり、いつしか掘り出せないくらい深いところまで埋まっていく。今を、明日を、懸命に走る。それは言葉を変えると過去を手放すことと同義であると言えるかもしれない。私は、また何か大きなことをしたい。誰かとそれを探したい。

しかし、一方でもういいかなという気持ちも同時に生まれた。もう少し言語化すると、もういいかなと思わせる何かがあった。おそらく自縄自縛のようなもので、自分が思う年齢像のイメージに自分自身が囚われてしまっていることがその正体なのかもしれない。最大の敵ってやっぱ自分?幼い頃から自由と博愛がモットーだったはずでしょうにどうして自分を縛っているのだろう。

その意味で、職種も暮らしの環境も違う二人と飲めたのは良い刺激だった。自分が作り上げた勝手なイメージを壊してくれるからだ。もっとこんなことしてもいいじゃない、二人の話を聞いているとそんな気分になった。そんな一面があるんだと驚いたり、相変わらず彼らしいなと笑えたり、その考え方できるのすごいなと感心したり。どんなにフラットに考えているつもりでも思考は偏ってしまう。思考はその人の環境や文化といった外的要因に依存している。だからこそ、バランスをとる上でもさまざまな人と会話をするって大事だなと思う。当たり前すぎるが。将来住みたい場所はどこか話したとき友人がオーストラリアと答え、そして現実として彼の環境ではそれが可能であることを知ったとき、改めてそう思ったのだ。

だいぶ会話も温まり場所を二軒目に移したとき「大学ではできなかったが、今ならできるやりたいことは」といった話題になった。明確にこれだというものは浮かばなかったが、一人が「書くこと」と答えた。書くことねえ。これは確かにそうかもしれない。


以上__
本当はもっと書きたいことあるけど明日は悲しい休日出勤だからここまで。
ありがとうございました。

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