論語について読んだとき
最近仕事でうまく行かないと思うことが増えてきた。
といっても、仕事内容は簡単な事務作業なのでそちらに問題は無い
そう、人間関係である。
私は知識に助けを求めて本を読むようになった。読書は苦手なのに。
自分自身の特性のことから処世術に関することについて読み、一時期は自己啓発本を読み漁るヤバい人認定されかけたこともある。
そんな中、図書館をほっつき歩いていたら孔子の論語について解説している本を見つけて借りてみた。
その中で心に残ったものがある
他人が自分をわかってくれないことを嘆くより、自分が他人を理解できないことを嘆くべきだ。
という内容のページがあった。そこで自分を省みると、他人について何も考えないで生きてきたな、と感じた。
流石に社会人になってからは、学生時代よりも他人について考えるようにはなったものの、まだまだ歩み寄りが足りない点があったと反省した。
そして学生時代の私が孤立してきたのも、他人に関心がなかったからだろうと思った。
全く他人に興味がない訳ではないし、孤独感もあるが、自分から他人に話し掛けたり歩み寄ったりはしていなかった。
私は自分から話しかけることが苦手な受動的な人間という自覚があったが、それを口実にしているというか、自分の心の中でそういう建前にして逃げていたのではないかと思う。
心の奥深くでは、きっといつか理解者が現れる、誰かが話しかけてくれるはずと思い続けた。そしてなぜ誰も私を気にかけてくれないのだ、なぜ私を理解してくれないのだと一種の被害妄想に近い考え方になって居たと思う。
今になってみればわかる、自分から歩み寄らなければならないし、私が他人に理解して欲しいと思ったように他人も理解を求めていると。
まずは私が相手について理解するように務めるのが先だと。
仕事においてそれらを念頭におき、休み時間などに雑談するときも、自分が話したくなったときにグッと堪えて、なるべく人の話を聞くようにしてみた。
他にも私から話を振る時もなるべく、あなたは何が好きですか、など相手に興味を持っていることを示し、相手に流れを任せてみるようにした。
すると、少しづつ人間関係が良くなってきたような気がした。
私のような人間は他人には他人の都合や感情が有ることを理解できず、知らずに生きてしまい、他人をゲームのNPCのように見てしまう傾向が有ったのだと思う。
たとえ感覚でそれらを理解できなくとも、知識として頭に入れておき、あくまでも相手に合わせるようにして生きていくと生きやすいなと思うようになりました。