小説「モモコ」第4章〜犬養の研究〜 【16話】
さっき遺伝子編集の話をしたでしょう?
犬養君はその狂気じみた情熱で、米国の生化学者ジェニファー・ダウドナが見つけたCRISPER-Cas9複合体を改良し、独自のDNA切断ツールを作り出した。そのツールがあれば、どんな遺伝子であっても編集できる上に、ある閉じた系で条件を揃えれば、まだ低確率だけど、切断された遺伝子を再び結合できるの。
その犬養君の研究グループに、植物の遺伝子編集の論文を何十本と世に出している猿丸君が加わった。彼らが没頭していたのは、倫理的観点から多くの研究者が言及を避けてきた本質的なテーマ。
ヒト杯の遺伝子編集。つまり、人類のデザイン。
彼らの研究が画期的だったのは、デザイナーベイビーを生成するのではなく、それを分娩する母体そのものを生成しようとした点だった。いきなりヒト杯の遺伝子を編集するのではなく、その母体となり得る人工子宮を作り出そうとしていたの。
今となっては忌むべきこのアイデアを最初に発想してしまったのが、雉谷アミ。当時犬養グループで共同研究をしていた外科医師。
私のことよ。
私たちのグループは、子宮性植物という、人間の女性が持つ子宮機能を備えた植物を生み出そうとしていた。私たちは世界中の数千種類のありとあらゆる植物の遺伝子を編集し、改竄した。そこに何の犠牲もなかったかと言えば嘘になると私は思っているわ。
最終的に最適な適合を示したのは、驚いたことに巷にありふれた植物だった。とあるバラ科の落葉小高木が秋季に実らせる、ピンク色の果実。
そう、モモよ。
私たちはその特殊なモモのことを、ユーテラスフルーツと呼んでいる。
モモコちゃんは、意図的に遺伝子を操作されたモモによって生み出された、デザイナーベイビーなの。
犬養君は自分の精子と、卵子バンクに保存されていた彼の奥さんの卵子を、子宮の機能を擁したモモのなかで受精させた。そうして、人間の身体を介さずに新しい生命を作ろうとしたの。
これが何を意味しているか、あなたにわかる?
出産において母体の身体にかかる負荷を全て、ユーテラスフルーツが代替してくれるのよ。UFD技術が確立すれば、出産を原因とする母体の死を無くすことができると彼は考えた。
「医療技術の発達によって、妻のような妊産婦の死亡率はいまや0.003%程度だ。もう十分に下がったと、医学会は言っている」
この話をするときの彼の眼は本当に怖かった。
「しかし、僕の妻は死んだ。出産が原因で死んだんだ。僕の敵は、その0.003%なんだよ」
わかっているわ。どうして彼を止められなかったのか、と言いたいんでしょう?
私だって、死んだ彼の奥さんがそんなことを望んでいたとは到底思えなかった。
そんな研究よりも、彼女が命を張って世に産み落とした息子の生命を大事に育てるべきだ。そんなふうに何度彼に言おうと思ったことかわからないわ。
「僕は、出産を原因とする妊産婦死亡率をゼロにする。妻のような死を世界から無くしてみせる」
それでも、真っ直ぐな眼差しで語る彼の眼を前にしたら、私は何も言えなかった。犬養君の覚悟は、例え間違っていたとしても、本物だった。
〜つづく〜