【心問書簡】 雨
雨の日が嫌いだった。
いつごろからか、そうでもなくなった。
出かけるときに傘を持つのは、わずらわしいけど、
雨に打たれるしかない街を、ぼんやりと眺めるのは心地がよい。
そう気づいてからは、傘を持ち歩くことほどには、
雨にわずらわしさを感じなくなった。
もしかすると、雨に打たれるしかない街に、
親近感を感じたのかもしれない。
無限の可能性を孕んだ、しかしそれをどうしてよいかわからない自分に、
街を重ねたのかもしれない。
空が暗いのも、お気に入りの靴を履けないことも、
電車内の蒸れた空気も、床が濡れて滑りやすくなった駅の構内も、
傘と傘がぶつかるのも、水たまりをよけるのも、
どれもこれも、わずらわしかった。
けれど、そのどれもが、
雨の日が嫌いだった直接の理由では無いような気がする。
雨が嫌いだと言う必要もなくなってから、
嫌いなものは嫌いだ、と、はっきりと自覚できるようになった。
それまで、好きなものを好きと言うことは、比較的かんたんだった。
それがゆるされた人生だった。
反対に、嫌いなものを嫌いだとまっすぐに言うことは、はばかられるところがあった。
誰かに禁じられたわけでも無いから、きっと、本当の自分を隠すためだったり、
なにか自分の中に理由があったのだと思う。
雨に打たれることが、ただ楽しかった頃のことを覚えている。
その感覚はまだ残っているけど、実際にそうしてみようと思わないのは、
雨に打たれた後のことを、どうしても考えてしまうからだと思う。
だから、当面のところはただ、
その頃の自分を懐かしく思い出すだけで、
満足していることにしている。