【心問書簡】 街
まえに住んでいた街を思い出しながら、その街を去った今の方がずっと、
自分の街だという感覚が強いことに、気付かされることがあります。
嫌なことがたくさんあったのに、辛い思い出がいっぱいあるのに。
それなのに、不思議な郷愁が、そこにはあるのです。
いつからその街のことを、そんな風に思うようになったのでしょう。
辛い思い出は、思い出せばやはり辛かったはずですが、
いつの間にかそれも、懐かしさのなかに溶けている。
反対に、しばらく住んだのに、全く懐かしさや親近感を感じない街もいくつもあって、その違いは何なのでしょう。
私には分からないですが、なんとなく、まだその街に表現したい自分が残っている、そんな街は、きっとまた訪れるのでしょうし、そうしてはじめて出会える自分や街が、そこにはあるのかもしれません。
何ヶ月か暮らしただけで、住んだとは言えないまでも、
強烈に懐かしさと、特別な感情を抱いてる街があります。
その場所にいた頃の自分のことを、どちらかと言えばあんまり好きではないし、
辛い思い出がたくさん詰まった場所なのに、それらも含めて、愛しさを感じるのです。
今、その街はもうありません。
正確に言えば、もうあの頃の様な街ではなくなってしまいました。
だから、二度と行けないこともあって、余計に想いが、心に根を張るのかもしれません。
時間が経てば、どんなものでも変化します。
変化を生きることで、人は経験を獲得するのでしょう。
あの頃に経験した色々なことを、今やっと、私は獲得したのかもしれません。
これまでずっと、経験は完了していなかったのです。
だからきっと、今になって本当の意味で自分の街だと、思えるのだと思います。
その街に残してきたものを、取りに行く必要も、もうありません。
その街そのものを、私は手に入れたのですから。