【心問書簡】 太陽の孤独
誰の作かわからない(一休和尚によるとする説もあるらしいが)、古い歌がある。
「灯火の消えて何処にゆくやらん 暗きはもとの住処なりけり」
(ともしびの きえていずこに ゆくやらん くらきはもとの すみかなりけり)
「灯火は消えてどこにいってしまうのか。灯火が消えたら真っ暗だ。しかしそれが本来の有り様なのだ」という様な意味なのだと思う。
これを読んですぐに、太陽を想像する人も多いと思う。自分も同じだ。
この歌の主眼とは逸れるかもしれないが、暗い宇宙空間で太陽は、自ら光を放つ光源として存在している。
周りはどこまでも暗闇だ。目に見えるものの多くは、「自らが照らしているから見える」のだ。
自分以外の恒星にも、必死に光を放っているものがある、近くにいって話がしてみたい、と思う。しかしそれができない。やることがある。役割がある。
無論、暗闇は孤独や無限と、太陽は人間と対応して考えられる。全体としての自分と個人としての自分、と言い換えてもいいのかもしれない。
そんな連想が働いて、なんだかしんみりとした気持ちになるのと同時に、体の力が抜けて全身に安堵感が薄くひろがる。太陽の気持ちなど、わかるはずもないのに、なんとなくその孤独を、よく知っているような気分になる。しかも自分がそれを知っているよりももっと古くから、それは自分のことを知っているのじゃないか、という気すらしてくる。そしてきっとそれは、その通りなんだ、という確信が芽生える。それゆえ、太陽に自分を重ね、遠くの恒星に彼や彼女を重ね、思いを馳せている。