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【ゆたかさって何だろう❓】 (旅人をしながらスラムの中から感じとったこと。最後に写真をまとめて載せました)
《豊か》をテーマにしたときに、ボク自身もだが多くの人がこんな意見があがるのではないか❓
・お金や物があっても、心が病んでいてはゆたかさとは言えない。逆にいうと、例え貧しくても家族や友だちに恵まれ、愛があればそれはゆたかだと言える。
・日本は餓死するような人は非常に少なく、世界の中ではとてもゆたかな国だ。
・セレブはゆたかにきまってる。綺麗事を言ったって、お金があるからこそ、ゆたかな選択肢がもてるのであって、お金がなければそもそも選択肢がない。
このように、《心情的なゆたかさ》と《物質的ゆたかさ》が挙げられる。そしてなぜか、その両方を手にすることは、なんだか、不可能とは言えなくてもかなりハードルが高いとされる傾向にあると、ボクは感じます。 だからこそ、【ゆたかさって何だろう】については、誰もがふにおちるようなことごみつからないのだろう。。。と。
ボクは思います。
【ゆたかさって何だろう❓】。 そういうことを考えたりする内は、きっと【ゆたかではないんだろう】と。
どういうことか❓
『自分はどうしてこんなに乏しいんだろう』と思っている人はもちろん、『自分はほんっとに恵まれててしあわせだわ〜』と思ってる人も、、そんなふうに、思ったり、考えたりしているうちは実は【ゆたかを手に入れてはいない】ということです。 どちらも、《周りと比較して》ということが無意識にもあって、その比較の中でそう感じているからです。
ボクの思う【ゆたかさ】は、何にも考えていない、何にも感じていない、そんなときこそがそれぞれにとってのゆたかさだと思っています。
お金持ち。例えそれが親の財産、遺産であろうがあぶく銭があって遊んでる。 何も考えることなく遊びほうけているときは、周りがその姿をどう見ていようが、本人は【ゆたか】の中にいると思うのです。 しかし、そこに、『自分は金持ちの家に生まれてこんな好き放題できる豊かさがあってよかった〜』と考えていたり、『親の金をこんな使いまくって、なんか、自分はダメ人間だなぁ』と考えたりすれば、 まさに、《心情的》と《物質的》のゆたかさをどちらも 手にしている実感はできないでしょう。
【夢中である状態】。犯罪とされる行いではない中で、それぞれが【夢中でいる状態】。
そのときにこそ【ゆたかさは生まれてる】というのがボクとしては、ふにおちる【ゆたかさ】についての思いです。
ボクはセレブではありません‼️笑。 むしろ、アジア諸国を旅し続けていて、それこそ物質的に乏しいという国々をまわっています。 《貧しいはずなのに、どうしてあんなにキラキラした瞳をしているのか❓》。そんなことを聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。 それは、事実です。 ボクもそんなたくさんの瞳と出会ってきました。 旅を始めた18年前はそのことにやはり衝撃を受けていろいろ考えたりもしました。今は少し違います。 彼らは乏しい。物質的にはボクらと比べたら本当なや乏しいです。 でも、だからこそ、『知らないことが多い』。パソコンはもちろんスマホだって、テレビさえない環境です。 世の中のことを知らない。知らない。自分たちが乏しいことは知っていても、その反対にいる人たちの生活、暮らしぶりを知らないのです。 ボクらはテレビやネットから、セレブの人たちの日常を観たりすることで知り、そこで、《無意識の比較》が起こっています。 でも、何もないからこそ、知らない。 比較が生まれない。 だからではないでしょうか❓ あれほど、澄んでいて、強くて、まっすぐな瞳をもっているのは。 しかも、そんなスラムに入り込んで行ったときには、むしろ、お金をせがまれたりしません。 子どもはもちろん、大人たちもみんな『なんか、変わった外国人が来たぞ』って、ボクだけに興味津々です。 ボクが何か話しかけたりするだけで、みんな、キャッキャ キャッキャしてます。 ボクは旅にもいつも自撮り棒を持ち歩いているので、現地のみんなとよく一緒にセルフィー🤳で写真を撮ります。 スラムの生活エリアの人たちは、そんなふうに、《セルフィー🤳で写真を撮る》なんて体験をしたことがない。 スマホの内カメラに自分たちが写るだけで、もう大はしゃぎの子どもたち。 その写真や動画を撮って、すぐにそれを見せると、画面の中で自分たちが写っていたり、動いていることがもう興奮しっぱなしの子どもたち。 そんな子どもたちを周りの大人たちがずっと、微笑んで見ています。 【夢中の中】です。 だから、そんなスラムにも間違いなくそこには、【ゆたかさ】がありました。 だって、そんなみんなの中でいると、ボク自身も【夢中】でいられて、後になったり、今思えば、【めちゃくちゃゆたかなきもち】でいたなぁ〜と気づかされます。 そのときはそんなことも考えてもいない。 それに、スラムエリアのその子たちも、大人も、【夢中】であるからこそ、ボクのそのスマホや自撮り棒を、『欲しい』とかそういうことさえ考えていません。 みんなが、キャッキャキャッキャ、興奮して、はしゃいで、笑って、走り回って、そんな【夢中のまっただなか】でいる中では、ましてや犯罪のような行動や、考えもうまれないことをどれほど経験してきたことか。 でも、たしかに、その後に、、、。 ボクがその場から離れたあとに、中には、泣きながら駄々っ子のように『あのスマホ欲しい😢』なんて、親に泣きつく子どもも1人や2人はいるのかもしません。 いるかもしれませんが、ボクは、まずいないだろうとも思っています。 かれらは、先に記したように、他の情報をほとんど知らない。でもそれを知らないからこそ、【自分たちの現実・リアルを何よりも知っている】、【彼らは リアルの中でこそ生きている】からです。 だから、街とかで、いわゆる一般的な暮らしの中でいる子どもや、大人たちであると、その自撮り棒撮影の最中にでさえ、『それちょうだい』とか言ってきたりしますから。 彼らは、『お金があれば欲しい』という感覚の中だからです。 でも、スラムエリアの子どもたち、人たちは、『それがあったところで衣食住の直接助けにはならない。電気もない』というような、そんなリアルがあるからこそ、欲したりしてきません。
【ゆたかさとは 何も考えたりしない 夢中の中でこそ生まれているもの】
それが、ボクの思っているゆたかさです。
最後に、【豊】を漢字で考えてみたいと思う。
《作》《漁》《胸》《艶》《満》《年》、、、。《 》はその一語でもちろん意味をなす。とてもシンプルな行動だったり、状況。 しかし、ここに【豊】を一字付け加えるだけで、まるでその度合いや、意味さえ変わってしまう。 ボクらはまず、《 》そのものにこそ、有る、在るというありがたさを意識的にみるべきではないだろうか❓あまりにも【豊】ということに意識が向きすぎてしまっては、有る、在ることになんの意味を成さない感覚になって、さらに、さらに、、、を求めていては、ボクの考える【ゆたかさ】には永遠に噛み合うことがないと思えてならない。
【豊】が【欲】となってしまうこと。 その違いをしっかりと見極めていれば、たしかにどちらもが原動力になることも言えよう。 だけど、その見極めができないでいたなら、自分の手にしている【ゆたかな瞬間】も気づくことさえできず、何を得たとしても、【豊というブラックホール】に吸い込まれて跡形もなくなるのではないだろうか。。。
追伸 トップの写真は、ボクが初めて旅に出た18年前。インド🇮🇳のムンバイ。ここに写ってる子どもたち、若者はみんな路上生活です。路上にテントのような屋根のみや、トタンなどでなんとか家のような形にした小屋のような建物。そんなのがずら〜っと並んでいるところで、ボクが子どもたちと遊び始めた。そして、帰る前に、当時はスマホなどなく、ボクが旅の前にジャパネットたかたで買った、フィルムの一眼レフカメラを、三脚に立てて、タイマーで撮影したものです。 これだけの人数が写るためには、三脚を置く位置だって、10mくらいは離れている。 カメラを持ち去られるには充分な距離です。 だけどボクはそんなことが起こるとまったく感じてもいなかった。 理由は簡単です。 この写真に写るみんなを見ればそれが証明されてます。
【このとき ここには ゆたかさが溢れていた】だから、盗みなんて起こるはずもなかった。
(一日中歩きまわってゴミからわずかな小銭になる資源を拾い集め、測り場にやってきた少年)
(物乞いにきた少女たちも、内カメラに写った自分をみて この笑顔)
(スラムエリア入り口で遊んでる子どもたち)
(この木箱がお気に入り⁉️のおっちゃん)
(空腹をシンナーを吸ってまぎらわせる子どもたち)
(一日中歩きまわってゴミからわずかな小銭にかえられる資源ごみを拾い集め歩く男の子)
(足が不自由で物乞いにきた老人)
(ある巨大スラムエリアの入り口で)
(路上生活者たち)
(路上で遊ぶ子どもたち)
(廃車で寝泊りして日中は外にいるという路上生活者たち)
(このスラムエリアではあっという間に、、、、、、)
(人が集まり、子どもたちのエネルギーの【ゆたかさ】はすごいパワフルだった)