イヴァン・イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」を読んでー就寝前の雑文
たまには、あんまり考えないで、垂れ流すような雑文を書いてみようかと思う。
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昨日から今日にかけて、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を読んだ。
訳は渡辺京二。
読むことになったきっかけは、一つ前のnoteに書いたので、もしご興味のある方はお読みいただければと思う。
読後感想は…
ガツンとやられた。
あぁそうだった、そうだったと、目が開いた。
子どもの頃に感じていた素朴な疑問。
学生の頃に見抜いていた世の中のまやかし。
それらを、真正面から照らしてくれていた。
彼はいう。
資本主義か社会主義かの問題ではない。
そもそも「産業主義的生産性」を絶対的価値としていることを疑わねばならない、と。
公教育か自由教育かの問題ではない。
そもそも人々が共に暮らす中で自然と起きてきた自発的な「学ぶ」行為を、専門家の手による「教育」にとってかわらせていることを疑わねばならない、と。
「道具」(具体的な道具ではなく、"医療"や”教育”などの制度やルールも含めて)は、人間生活の「多元的な均衡」を見極めて使わなければ、いずれ生産性ばかりが伸長して人間の能力を大きく越え、人間は機械と競争させられたり、機械(や官僚システム)の管理者あるいは利用者として、機械に隷属する存在になりかねないという彼の指摘は、今の僕らの置かれた状況を明確に予言していたと言えるだろう。
彼の言うことを自分なりに解釈すると、環境問題も、人間の格差の問題も、すべては「もっと生産性を高めれば」「もっと管理を徹底すれば」「もっと情報を蓄積すれば」問題は解決するという盲信によって、加速化していることになる。
彼はいう。医者に権威をもたせることで、あるいは官僚システムに教育や福祉を委ねることで、私たちは、自分自身のことを自分で決めたり、自分の身の周りの人と共に互いにケアしあうことができる、という感覚を失っている、と。
医療については特にドキリとした。そうか、自分の病気を自分で判断する、ということが自分にできるという感覚、あるいは病気になったときに家族と医者以外の人を頼るという感覚は、たしかに自分にはないのである。
保険や医療のコストが年々増大していることと、僕らのこうした感覚の喪失とには、明確な関連があるといえるだろう。
彼の矛先は医療や学校だけでなく、自動車にも向かう。
もっと早く移動したいと自動車を求めて、結果、移動に多くの時間を割くことになり、自動車の製造、購入、メンテといったことや、道路の建設や管理といったこと、そして事故の対処や安全対策と環境対策に、個人としても社会としても膨大なコストを払うことになっている、ということを指摘する。
(宇沢弘文が記した「自動車の社会的費用」が1974年、この本が1973年だから、相互に共振していたのだろうか)
自転車で行き来できる範囲の中で暮らしを成立させられる方が、ずっと、人間的な喜びに満ちていて、資源やエネルギーの消費量も格段に小さいのに、と。
だけれども「もっと効率的に」「もっと早く」あることが、よきことであるという刷り込まれた思い込みが、私たちが自動車から自由になることを拒む。
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僕らはあまりに一部のエリートがつくったシステムに慣れ親しんでいるから、そのシステムがないと、また、エリートがいないと生きていけないと思い込んでいる。
だけれど、そんなシステムは、ほんの数百年、いや、あるものはほんの数十年の間につくられたものなのだ。
エリートがつくった人工物に頼り切ることで、自分の潜在能力を見失っている。だから、エリートなしで、人工物なしで、生きていけないと思い込んでいるだけなのである。
でも、ほんとは大丈夫なのだ。
コンクリートで組み上げられた足場がくずれても、そこには大地があるのだ。
鋼鉄でつくられた重機が動かなくなっても、自分たちには、手も、頭脳も、手に馴染む道具も、あるのだ。
僕ら一人が生きていくのに必要な土地は、見渡すほどに広くなくていい。
ひとつの集落にある農地で、その集落落位の人口は養える。
少しの鋼や木々があれば、僕らは衣食住をまかなっていけるし、今ある技術を使うことで、中世や近世よりもよりスマートな暮らしをすることはできるだろう。
ぼくらが安心に、豊かに、平和に生きていくために必要なのは、銃や、巨大な兵器ではない。また、一部のエリートがつくりだした、専門家以外には改良も修理もできないような高価なシステムでもない。
自分と身の回りの人が衣食住を満たすことのできるだけの土地と、自分たちの手にに収まる「道具」(概念やシステムも含めて)、それを活かすための術と、互いに協力しあえる仲間なのだ。
うっすらと感じていた、自分たちが進むべき道が、この本を通じて、はっきりと浮かび上がったように思う。
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これが必要だと思い込んでいるものを手放していくことは、たしかに、勇気のいることだ。
また、時代への逆行だと馬鹿にする人も現れるだろう(そのことはイリイチも幾度も指摘している)。
だから。最初はとても怖いことのように思われるだろう。
だけれども、それは、ワクワクする旅に一歩踏み出すときの不安と似ていると言えるのではないか。
この旅は、自分と他者を自由に開放していく旅であり、身の周りの自然と地球環境の調和を回復していく旅なのだ。
「果たしてそれは人類の"進歩"なのか?」と問う人もあるだろう。だけれど、それは、僕にとってはどうでもよいことである。
進歩することがよいことである、という観念もまた、「産業主義的生産性」に囚われたものであることを、イリイチが与えてくれた視座は明確に照らし出すのだから。