人間がにんげんとして生きられる社会へ
「事実は小説よりも奇なり」
とはよく言ったものだ。
まさにいまの僕は、小説よりも、ドラマや映画のように、ドラマティックな日々を送っている。
これまでやってきたことが、目指す方向に向かって、すべて、カチカチっと音を立ててはまっていく感じがしている。
息着く暇もない。ドラマや映画を見てる暇もない。
ないのだけれど、今の自分の思いを、書き記しておきたい、と思った。
過ぎてしまい、忘れてしまうのがもったいないから。
だからこの一文は、自撮り写真のようなもの。
いま、いくつものことが、動いている。
約1年半ほど前から本格始動した休眠預金活用事業「あらゆる子どもの育ちを保障する地域総動」では、3年間の事業の2年めに入るにあたり、Podcastの配信と、専用のWebサイトを準備している。
昨年秋から企画が始まった、水俣とびわ湖のつながりをつむぎなおすイベント「みっけ!水俣∞びわ湖」は、企画の骨子が固まり、ホームページを仮オープンし、協賛募集や後援依頼などに本格的に動き始めた。
ぼくが暮らす日野町では、2年ほど前にはじめた「しゃくなげ渓ウォーククラブ」の公民館展示がはじまった。休眠預金活用事業で伴走している日野里山フリースクールの活動も日々盛んになっているのに加え、僕の友人が座長をつとめた子育てに関する懇話会の答申が出されたり、図書館館がはじめた若者の居場所活動を継続・発展させるための作戦会議も行われている。最近は、地域の経済循環に関する研修会も行われ、それにも顔を出してきた。
故郷の余呉を源流とする高時川では、濁水問題が続き、大規模風力発電への懸念も大きい。これらの課題についても、現地の仲間や知り合った方々とともに、事実の整理や、政策形成のための勉強会開催なども行っている。かつて勤めた淀川水系流域員会の関係者、大学時代の恩師にも協力をいただきながら…。
とまぁ、めまぐるしい日々なのだ。
いわゆる社会課題としては、子ども、福祉、環境、教育、自然…と、まぁいろいろな分類になるのだろうけれど、いずれも、僕の中では、ひとつにつながっている。
「人間がにんげんとして、育ち、生きることのできる地域をはぐくみなおす」こととして。
生命と生命、人と自然、人と人との、緻密で繊細で複雑で豊かな関係。
その総体が、ぼくら人間とすべての生命の、生きる基盤。
生命の共通資本だ。
だがその基盤は、この数千年…特にこの数百年、金融資本の論理でずたずたにされてきた。
共通資本の破壊として誰の目にも明らかなのは公害、そして戦争だ。
加えて、気候、水資源、土壌、地域経済、心身の健康といったものの劣化も、目には見えにくいが、同じく金融資本の論理による、じわじわとした破壊だと思う。
だからぼくらは
生命の共通資本を守り、はぐくみなおす
金融資本はもうその破壊に回すのではなく、再生に活かす
方へと舵を切るべきときにいると思う。
うわっつらだけの「環境にいいこと」「人にやさしいこと」にとどまっていては、根本解決に至らない。
もう一段、深める必要がある。
直線だけではなく、曲線を。
計画だけではなく、偶然を。
管理だけではなく、受容を。
促成だけではなく、熟成を。
構築だけではなく、循環を。
価値がないもの、無駄だと思ってきたものの真の価値を、再認識することが必要だ。
ぼくらは、もっともっと、自然の営みに学んだほうがいい。
何十億年も続いてきた、生命の営みに。
いま、本当に多くの出会いや、協力がある。
きっと、ぼくが向かっている先と、多くの人たちの目指している先とが同じ方向を向いているからなのだと思う。
もちろん、道のりは多少違う。
歩むペースも違う。
おしゃべりの話題も違う。
世代も違うしね。
でも、向かっている先はだいたい同じだと感じる。
みな、ともに歩む旅人だと。
何十年の年の差なんて、何十億年の差からしたら、ほんのちょっとのこと。
あんまり偉そぶらなくていいし、あんまり遠慮しなくてもいいだろう。
同じ時代を生きている者どうし、にんげんらしく暮らせる社会を、一緒につくれたらいいなと思う。
いま、この文を読んでくれているあなたとも。
そうそう、鳥たちの群れを見てると、誰がリーダーとか、たぶん、ないんだよね。
みんなで生きてる。
人間も、群れるいきもの。
本来、そういう生き物のはずだ。
※タイトル写真は、近所で出会ったねぐら入り前のニュウナイスズメの群れ。のぼってきたお月さんとともに。次の満月の頃には、もっと北か高所に、皆で渡っていってしまっているのだろう。