振り向くと奴が
遠く離れた東京にいる今も、この道が、今歩いているこの道が、あの男の歩いているどこかに続いているかもと思うとゾッとするものだ。あの時以上に、全身の毛という毛の逆立つ経験は全く思い出せない。
あまりにも鮮明で記憶から消せない、小学生時代のある映像。動画の視点は、ある人間に向けられている。一目見るだけで異様と断言できる奇妙な動作で、学校の近所の"スーパーとりせん"の脇道を猛スピードで歩く男。目撃するのはなぜか毎度その場所だった。どこに行くのか不明だし、誰なのかなんてわかるはずもない。背は低く、猫背で、頭髪は所謂おぼっちゃま刈りというやつ・・・服装は記憶にないに等しいほど味気なかった。注意して男の様子を伺いつつ、万が一やつに気付かれるなどという愚行を犯さぬよう、慎重に軽やかな歩行を観察する。あっという間に後ろ姿が小さくなり、やがて見えなくなる。映像はそこで終わる。僕は壁に身を隠し、「どこにいくんだろう」などと疑問を抱く。
その男がある日突然我が家を訪れたのだ。徒歩で。いきなり。その時、姉と僕の友達と僕の三人は、家の廊下に広げた"人生ゲーム"に夢中になっていた。夏だったので、廊下と直結している玄関は開けっ放しにして。
「ギャーーーッ!!!」
異物に対峙した姉の絶叫で、場の異変性が暴露される。姉の顔を正視した僕は、初めて聞く人の叫びに硬直しつつも、なんとか後ろを振り向けたようだ。全身鳥肌とはこのことだ、と思った。今思えばなぜなのか理解できるが、あれだけの危機的状況に置かれると「窮鼠猫を噛む」とか「一目散に逃げる」とかいった行動は、手札として持っていても切ることができない。そんなことを考えている暇がないのだ。僕らは三人とも微動だにしなかったし、目を合わせるとか喋るとかもしなかった。静かに僕は、先に何かしたら殺されると思った。その馬鹿げた、あまりにも馬鹿げたシーンに時が止まっている。ましてや「不法侵入だ!」などとは言えるはずもなかっただろう。ただ男の初動を見逃すまいと、全神経がそのどす黒い顔をした物体に注がれていたのは言うまでもない。
ーあの数分間を振り返ると、しかし、よく何も起きなかったなとしみじみ思えてくるー
年は10代後半からいってても20代前半くらい。唐突に、「前、ここに住んでたんだよぉ!」と笑顔(本当に笑顔だった?)で、心から楽しそう語っていた。というより、宣言していたといった方が正確かも知れない。それを言うと奴は満足げに踵を返し、帰って行った・・・。
人生ゲームどころでなくなった僕たちは、呆然として時を過ごした。怖がっていたのは、その場に一緒にいた友達も同様で、母が帰ってきてから車で一緒に送ってもらいたい旨お願いした気がする。とにかく全てが落ち着いた後、事件の一部始終を僕たち兄弟は紅潮気味に母に伝えた。母は特に意にも留めていないという様子で、今にして思えばもう少し落ち着きをなくしてくれてもよかったんじゃないの?とでも言いたくなる。が、その時に母から聞いた話では、「家が立つ前、ここは団地の中でも唯一の空き地だった」ということだった。事実なのか嘘なのか、そもそも本当に20歳くらいの男だったのか?日本人なの?どこにも向かっていなかったんじゃないの・・・?でも今も、突然奴がいる気がして、時折後ろを振り向いてしまう。