世界を変えよう、漕ぎ続けよう
さて、
「この怖ろしい世界は変えられるのか」
正確に言えば、
「言語野の局在という遺伝的変異を得た“人”という種が、“記憶”の定着や自我の目覚めに代表される“意識”と共にセットで得た“大規模な同種殺戮”という能力を、制御することが出来る日は来るのか?」
という設問になる。
ノーベル医学・生理学賞を受賞したオーストリアの動物行動学者であるコンラッド・ローレンツによれば、例えば縄張りに個体が増えすぎたといったような特定の条件下でなければ、強い攻撃力を持った種であればあるほど、同種殺戮は制御されるという研究成果を紹介している。他種の行動選択の原理は言語ではなく、外界の刺激に応じた遺伝子に組み込まれた条件反射に誘発された“衝動”による行動選択で、人で言えば“感情”による行動選択に等しい。
では、脳内の言語による理性的な判断の結果としての行動選択と、遺伝子による衝動的な感情による行動選択と、どちらが強く働くか?
結果は、火を見るより明らか、であろう。
感情による行動選択に常に、軍配が上がる。
何故なら、遺伝子は身体そのもので、脳は身体の一部、一器官に過ぎないからだ。
しかし、意識偏重により、行動選択を常に意識が行っているという錯覚に囚われやすいという特徴を持つ人という種である我々は、広大な身体〜遺伝子、感情、無意識、或いは自然と言ってもよい〜の膨大な力をしばし、無視してしまう。
身体と心。遺伝子と脳。感情と理性。無意識と意識。自然と人工物。これらの対立概念について、繰り返しになるが、どちらが強いか?どちらが親か?と聞けば、「それは前者だ」ということになる。何故なら、“遺伝的な変異”により得ることの出来た“言語野”という機能から出される能力は、“理性”であり“意識”が働いた結果で、あくまで“遺伝”の一部の“変異”にすぎないからだ。
だから、少年兵は両腕を切り落とし、その記憶を薬によって麻痺させる。
よって、残念ながら、「世界は変えられない」という結論に帰結してしまう。
では、希望はないのか?となるが、諦めるのはまだ、早い。自転車も、漕ぎ続ければ、倒れないからだ。つまり“祈り”“畏れ”“智慧を働かせ”“助け合う”。それを社会的習慣化することによって、同種殺戮の発芽を抑制し続ける。
これしか、ない。
だから、政治は、宗教に代表される“理”は、大切かつ重要なものとなる。それが人という種が長い年月をかけて培ってきたもの、人という種にだけ通じるもの〜教養であり叡智〜であるからだ。
台風や地震などの天災を畏れ、人の小ささを知る。そして、神社を詣で、祈る。歴史を学び、我を省みて反省する。それらの大切さを、繰り返し、自転車を漕ぎ続けるように、子どもたちに伝えよう。 願わくば、全ての子どもたちに光明を。
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