[詩] 遠い目
〈春は暑い〉と祖父はよく言った。躑躅色の広がる庭から戻ってくると、汗だくになった日本手拭いの頰被りを取りながら、離れの縁に腰をおろした。汗がながれる。書斎人ではない老人の弛んだ首筋は、よく日に焼けている。
庭仕事をねぎらって祖母がお茶を運んでくる。もっと冷えたのはないのか、などと爺が言うものだから押し問答になる。それも毎年のこと。茶碗を片してしまうと水屋から、そろそろお相撲がはじまりますよ、と声がする。爺は膝を立てて利き手でぐいと押して立ち上がり、風呂場へと消えていった。
決して仲が良いとも言えない夫婦なのだが、花水木・沈丁花・椿・躑躅・松などの庭木の剪定だけは、爺を褒めた。確かに子供の目にも、どの木も美しく刈り込まれているように映った。〈お爺さんの取り柄はこれくらいだから〉と、婆の悪態が耳に残ったものだった。爺と二人のときに、どうして庭木の散髪が上手なのか、と訊ねると、〈『ここを切ってくれ』と木が頼んでくるからだ〉と、教えてくれた。その秘密を婆に話したら〈そんなことがあるものか〉と。それでも〈まあ、あの人の得手だからね〉と、言葉を継いだので心の角が少し丸くなったようにも感じた。
風呂から出てきた爺は、テレビの前の特等席に腰をおろした。庇の長い離れの縁に近く、風も感じられるいつもの居場所である。使い慣らした座布団で居ずまいを正しながら、テレビをつけようとした。その時に、気になっていた答えの続きを乞うた。卓上にゆっくりとリモコンをもどすと、黒い顔をこちらにぐいと向けた。白い無精髭が光って見える。乾いた猿のようだと思った。〈その木にはその木に似つかわしい枝ぶりや姿があってな。木はそのことをよく知っていて、わしに手助けをしてくれと言うんだ〉と。そのもの言いには本人も酔ってしまう味わいがあったのか、悦びの光が深く窪んだ瞳の奥に灯ったように思えた。〈何にでもな、それにふさわしい立ち姿や身の有り様がある。それぞれの庭木もそれぞれらしく、な。花や草もそう、地べたの芝生だって。綺麗に刈ってやって初めて見事なフェアウェイになる。そう、若い頃によくプレーした俺のコースの芝生も綺麗に整えられていた。得意だったアイアンでピンを狙う時には、芝生を傷つけないように気を付けたものだ・・・〉いつの間にか話は滑り出していた。この人にそんな趣味があったとは知らなかったし、こんな話し方に接するのも初めてだった。窪みの奥の目からは光がこぼれ出ていた。此処ではないとても遠くを見ている目。そんな艶のある大男を真近にしていると、だんだんと身が固くなって痺れてくる。〈こうやって、小さく見える遠くのピンを狙うだろう・・・〉と、声も勢いに乗ってきて続きを話そうとした時、婆が無造作にテレビをつけた。途端に大きな音がして頭が強く揺さぶられ、すべては斬って棄てられてしまった。婆は、酒瓶とコップと煙草盆を慣れた手つきで置いていった。
もとの大きさに戻った爺はひとり酒を注ぎ、煙草を燻らせながら相撲の中継に見入っている。瞳にはもうその光はなく、始まりも終わりもない時間を見つめているようだった。
婆の料理はいつも美味しい。あたたかな風味がある上に歯ごたえもあって、食べた実感がしっかりと残るのだ。爺が美味い不味いと言うのを聞いたことはなかったが、どう言う訳か今夜は〈美味いなあ〉とひとりごちた。血色のよい顔全体を笑みにした婆が近づいてきて
〈お爺さんは法螺吹きだから〉
と、耳元でささやいた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?