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知らなくても知っている
誤解のないようにお伝えしたいのですが、
上の文ですら、様々な事に気を配って書く文章です。
さて、そのことを少し書いていきたいと考えています。
人間に、伝える時、どのようにしたら、伝わるかかなり思考を使います。
わたしは、文章を書く専門家ではありませんので、文章もそれなりです。
それでも、関心を持ってくださる方々がいて、読んでくださることに感謝します。
今日は、そういった事に思考を取られないまま書いてみようと思います。
生きる上で、人間の思考を使わない、つまり、記憶に頼らずとも生きることができる境地があります。
自分の周りで何が起こっているのか?世界で何が起こっているのか?生きるために知恵や、道徳的な事。
それらを人間はわざわざ学びます。
学ぶことによって、さらに、そのことから離れていきます。
そして、教えがないと生きることができないかのような錯覚を起こしています。
それを手放そうとするとき、恐れや、不慣れから来る、たどたどしさが、起こります。
人間は、学びの奴隷とも言えます。
学んだことから離れることができない。
また、学ぶという、この地球独特の慣習から抜けることができません。
これを書くのは、今、地球はその過渡期であるからでもあります。
以前の地球なら、この話は、とても無理な話でしかありませんでした。
この地球で、有利に生きている(と、かんちがいしている)方々は、この流れに抗いたくなります。
例えば、知能が優れている、経済的に豊かである、社会的地位・・・
それらは、これからの流れの中で、価値がどんどん下がっていくモノです。
実際に、どれほどの時間をかけてそうなっていくかは、皆さん次第です。
しかし、進化の過程で必ず起こるべきことですから、それが起こっていく事は、必然であり、それらを手放す方が多ければ多いほど、それは加速していきます。
(この地球固有の)知識で生きるという事が、どれほど、自分自身を狭くしているのか?
それを知ることはできません。
しかし、人間は知ろうとし、知った気になって思考停止を起こしています。
この地球には、悟りという言葉があります。
一昔前までは、選ばれた人しか到達できない境地だったかもしれません。
しかし、今では、悟ったという方が増えています。
本当かどうかは、どうでもよいのですが、それに触れながら生きる方は増えているようです。
そこで気になる事もありますが、人間から見て、本当に悟っているかどうかなどわかり様もありませんし、本人ですら、独学で、自分の考えでそう考え、主張しています。
人間は、そのことが真実かどうかという事はあまり気にしません。
自分にとって、好みかそうではないかという気分が、判断の大部分を占めます。
真実かどうかは、重要ではないのです。
そういった非合理的な判断をしているという事さえ、自覚がありません。
わたしは、わたしとあなたを区別する必要のない文章を発信しているつもりです。
何度も書いていますが、そのように読んでいただいて結構です。
わたしの個人的な事以外は、すべて、それで意味が通るように思います。
わたしと対話してみてください。
悟りの本質をお伝えする事ができます、
それを知ったなら、巷で話される悟りの話が、いかに、子供じみた話なのか感じ取れるようになります。
わたしは、批判はしません。
わたしは、知っているだけです。
ですから、わたしの理解とあなたの理解が一致すればするほど、あなたの理解は広がっています。
その時に批判をしたくなるなら批判をしてみればよいし、その他の感情が現れるのなら、あらわしてみても良いと思います。
それは、人間としての個性を尊重するという事でもあります。
この世のすべてを肯定的にみるためには、自分自身から起こるすべてを肯定的にみることができるようになることが必要です。
自分自身から湧いてくる様々な思考や、感情と向き合う時、その準備が始まります。
ここまで、書きましたが、構成も何も考えていません・・・大丈夫でしょうか?ついて来ようとする必要はありません。
なんとなく、音にして読んでいただければと思います。
今ある思考を捉えようとすることなく、そのままでいる事。
するとそこに様々な思考がある事に気付きます。
思考していないと考えていても、それらはいつでもあります。
思考していないと考えているのは、個性の一側面でしかないからです。
思考が消えたと言っている、小さな個性。
そこにフォーカスしてその気になっても良いですし、さらに、それを在る様にする、わたしに気付く、道を進んでもいい。
わたしは、後者を選びます、
また、わたしは、それを知っていて、実際にお伝えしています。
悟りの話は、ある一定の、人間の話です。
今日は人間に忖度しないで書いてみました。
こういった文章が好みの方がいらっしゃったら、コメントください。
自覚を通して広がった「それ」で書ています。
わたしは、まったく、悟りを意識していません。
それでも、この世に在る文献を調べると、それらしい事と一致します。
最近、書いている「三覚」もまさにそれです。
自覚・覚他・・・なんだっけ?(覚行円満)
つい最近までそんな感じです。
それでも、そこに書かれている事は、理解の範疇です。
知らなくても、自覚をしていると知っているのです。
それを言葉として残してくれている先人に敬意を表します。
しかし、言葉を読んで、学ぼうとする人間が、そこ功績を愚弄している事もここに書いておきます。
人間は、そこに全て書いてあっても、自分の認識したいようにしか認識しません。
そして、その認識は、自分の気分にも大きく左右されます。
わたしには、その状態が、先人の功績を愚弄しているように見えるのです。
わたしも愚弄には、なれていますから、それに対して批難する事はありませんし、先人たちもそうでしょう(笑)
今日は、ここまでにしておきます。