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奴隷である事すら気付けない、巧妙な仕組み

人間として、自覚の奥行を最初から分かっている事はありません。

かく言うわたしも、自覚を始める前は解りませんでしたし、師匠に会う前は、わかったつもりでしかなかったことを記憶しています。

師匠のもとで、自覚を始めても、すぐには解りませんでした。

そして、自覚をお伝えしている今、自覚をわかったとは言いません。


人間は教育によって、成長すると信じています。

また、真実を知る事が、目覚めを起こすと考えています。

結論から言えば、目覚めますが、また違う夢を見ています。

目覚めたという夢を見るという事です。

そこから抜け出すためには、思考の奴隷から抜ける事です。

大それた表現になるかもしれませんが、

わたしは、現代の奴隷解放運動をしています。

考えの奴隷から、思考の主人に・・・

考えの奴隷は、真実を探し、その真実に隷属します。

昔のような鞭や牢屋で奴隷をコントロールする事はありません。

なぜなら、歴史的にそれがうまくいかないという事が解っているからです。

奴隷管理の試行錯誤で、奴隷を奴隷と呼ぶことなく、国民と呼び、国民同士で、管理しあう社会をここまで創り上げてきました。

歴史上、最大の効果を上げた奴隷制度かもしれません。

わたしは、陰謀論を語る気はありません。

また、陰謀論という考えの奴隷でもありません。

奴隷が、奴隷解放をしようとしても、檻の中からカギを開けようとするようなものです。

たとえ、奴隷の主人を打倒したとしても、奴隷の心持ちのままでは、新たな主従関係をつくりだすのです。

身近な様々なコミュニティーでも、同じことを見る事ができます。

人間がつくるコミュニティーは、必然的にそうなります。

人間という在り方が、奴隷なのですから。

ここまで読んで何が伝わっているでしょうか?

結局のところ、人間がどんな理想を掲げ、それを成し得ても、また同じ、上下や差別を創り出します。

何万回やっても、同じ結果になります。

なぜなら、本質が変わらないから。

人間は、自分が納得したことを真実として、握ります。

突拍子も無かろうが、論理的であろうが、自分が納得すれば、それが真実です。

真実の奴隷であるうちは、必ず、真実に基づいた行動を行います。

その真実が、ここで違うからこそ、争いも起きます。

教育と洗脳

教育と洗脳の違いを明確に区別できるでしょうか?

正しいとされることを教えるのが教育でしょうか?

その理論なら、社会に恨みを持ったものが行う反社会的な教育は、教育でしかありません。

この日本で、子供たちに行われている事は教育でしょうか?

それを洗脳という方もいらっしゃいます。

わたしの考えですが、現代社会において、正しいとされることを教え込む教育をすることは、洗脳と変わりないように見えます。

どんなに素晴らしい言葉を勉強したとしても、その考えを正しいと思い、影響されるのなら、それは、その教えに隷属しているという事になります。

隷属すればするほど、それを守るための主張が強くなっていきます。

根っからの奴隷こそ、主人が倒れると、自分も共に倒れると信じているからです。

そうでない方もいます。

ただ迷ってが自分の意見を持たない方。

意見を持たないで、現実に向き合わずに、「私は大丈夫」という、考えにしがみついている方です。

真実がどんどん暴露される・・・

すると、その真実を信じ込む人間たちが、目覚める・・・

残念ながら、目覚めた夢を見るだけです。

折角、見つけた真実を否定された時、人間はどんな動きをするでしょうか。

それは、誰にでも経験からわかるはずです。

鳥肌のたつような真実を聞いて、真実に目覚めたという・・・・

今も、そんなyoutubeを流しながら書いています。

しかし、それを機にまた違った理解も起こるかもしれません。

新しい真実を掴んだとき、また同じことをしていると気づく方が、稀にいます。

その方は、違和感を抱えながら、しばらくは気付かずにいます。

その違和感が消そうとしても消せなくなった方は、一時的に苦しむかもしれません。

しかし、それは、肯定的な理解へのお知らせでもあります。

お知らせという事に気付くことができないまま、体調を崩していく方は、とても多かったように感じます。

だからこそ、気付き始めている方に届くように、活動をしています。

その方が自覚に触れるなら、自覚の奥行を感じ取ることができます。

そして、自覚を実践するまで、それほど時間はかかりません。

自分の意思で、行動をします。

わたしは、一人ひとりの行動を尊重します。

ですから、無理やり自覚をしてもらおうという事はしません。

自由な中で、意思をあらわしていく事が、自覚において、とても重要な事であるからです。

中途半端な知識

SNSの発信をみると、様々な言葉が飛び交っています。

その中でも、多く指示が集まる投稿に注目しています。

そこから、現状を知る事ができるからです。

それを見ていて思う事は、思考(エゴ)を満足させる投稿に人間は集まるという事。

良い言葉を綴る投稿には、沢山の方が支持します。

また、安心させてくれる投稿

これは、○○だ

一見良い事を言いきっている投稿。

それを聞いて、自分自身の中に何が起こっているのか、ハッキリわかるようになれば、その投稿を支持する事はあり得ません。

また、○○しなくていいんです。あなたはそのままでいいんです。

という、投稿

両者とも、何かしらの安心を与えているように思います。

人間が、外に安心を求めている時、奴隷としての在り方になります。

沢山支持が集まる投稿を研究してみてください。

本当にそれが良いのか?

すべては、人間という在り方が創り出す、特有の行動なのです。

今、縄文ブーム?

確かに素晴らしい事を言っているように思いますが・・・

それを習って、日常に取り入れる事は悪くありません。

しかし、それが良いと考え、それをやり続けるなら、奴隷です。

この辺からは自覚を実践しない限り、理解する事は難しいかもしれません。

しようとしてする感謝は、自分の本質の上にペンキを塗るようなものです。

今の本質の表面が錆びていたとしても、ペンキを塗ってはいけません。

人間は、何度もペンキを塗って、自分の本質に触れることができなくなっています。

良い事を語っていても、目が死んでいる・・・

文章を棒読みしているかのようなそれに気づけないのは、言葉の奴隷だからでもあります。

そういった方は、ほころびから、破綻していきます。

なぜなら、その言葉が、本質から現れた言葉ではないからです。

それを感じ取れる方は、まだまだとても少ないように感じます。

だからこそ向き合おう

自分の上にペンキを塗っていると感じたなら、それをしないまま、向き合う事が大切です。

向き合ったときに何が起こるかは、その方の答えです。

その時点で少し、本質に近づいた答えを知ります。

その少しを沢山やった方が、本質に近いところから表現できる方々です。

もし、否定されたと感じた時、否定した相手に向くのではなく、それを感じた自分自身に向き合える方は極少数です。

しかし、そういった事が鍵です。

多くの方が進む道は、今のところ、衰退もしくは、破滅への道です。

これはわたしの考えです。

信じることなくご自身で確かめてみてください。

わたしは、その先の必然を見ます。

その必然は理であり、わたしの個人的考えとは質が違うモノでもあります。

向き合う事を通して、その目が効くようになりました。

だからこそ、自覚

自覚をするという事は、「自分自身に向き合う」というを冷静に冷徹に、徹底的に極めていく事でもあります。

これに、どれほどの価値が有るのか?

価値の説明はしません。

価値の説明は、あなたに価値を押し付けることになるからです。

わたしはそれをしません。

わたしが、伝えることで、自覚の奥行を感じてくださる方は、そこにその方独自の価値を見ます。

その価値が、行動に移らせるほどの価値であるなら、行動が起こります。

それを待つことにしています。

聞いた話で納得しない

誰かの話を聞いて、そのまま伝える。

それをしている方は沢山いらっしゃるように思います。

良いと考えたから、誰かに伝える。

理解が浅いまま伝えるそれは、無自覚であっても、明らかに相手に伝わっています。

奥行を感じることができるようになるなら、それは一目瞭然です。

その練習無くして、本質に触れることはできないのですが、手っ取り早い話に、弱いのが人間です。

そういった、罠?をかいくぐった方が、本質に向かって歩きます。

いまでも、罠のような、網のようなそれらに引っかかっている方が、大多数である事は、ここまで書いてきました。

なぜ、そこに集まるのか?

それを奥行をもって見る事ができる目を持つことは、意識の成熟と同時に起こっていきます。

それらに違和感を感じている方々は、目が効いているとも言えます。

しかし、経験が伴わないために、苦しみになっているともいえるのです。

それをさらに、ハッキリ見えるようにして、何が起こっているかわかるようになると、苦しみから抜けようとすることなく、それは消えています。


自覚をするという事は、一人ひとりにそれが起こっていくという事でもあります。

世の中が平和になったから、一人ひとりが幸せになるわけではありません。

一人ひとりが、幸せだから、世の中が平和になっているのです。

平和は誰かがコーディネートするものではないのです。

ここはとても大切なところです。

多くの人間の認識が違っているのではないでしょうか。


思考の奴隷から抜けることは、縄文ブームでも起こりません。

そのことを理解できる方、才能がありますので自覚をお勧めいたします。

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