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悟りを言葉で知ろうとする傲慢
仏教の事に触れると、面倒くさい事になりがちです。
それについて詳しくお話はしませんが、察してくださる方はいらっしゃるように思います。
悟りとは何か?
という事を話す方がいらっしゃいますが、それを語る事について、私はあまり価値を感じません。
悟りとは何かわからないと悟る事ができない・・・
そんな方がいらっしゃることが最近わかりました。
驚くことはありませんが、新しい理解ではあります。
人間は言葉に囚われ、それにまつわる規定や定義から無自覚に影響を受けています。
そこから自由にならない限り自分の枠を超えることはできません。
さて、
美しい・美
これらを感じるためには「美しさとは?」という事を知らないと美しいと感じられないでしょうか?
丁度これと同じことのように思います。
美しいという言葉を知らなくても、美に触れた時、ある感覚が起こります。
それを人間が後から美しいという言葉を付けました。
勉強して、傲慢になった人間は、まず言葉が先にあります。
その言葉は、自分で定義づけされた言葉にしかすぎません。
それを自覚できないまま、人間は生きています。
これは、わかる方にとっては、恐ろしい事でもあります。
目を閉じて生きているから、崖の際でも恐怖を感じることなく歩くことができます。
しかし、そこから落ちていく方も沢山いらっしゃるようにわたしには見えます。
いつも崖っぷち
それを知ったからといってどうすればよいのかわからないのが人間です。
目を開くなら、そこから遠ざかればいい・・・
ただそれだけの事ですが、向き合うどころかそこに背を向けて生きる事を無自覚にさせられています。
本当に簡単な事ではありますが、向き合って知るという事を避けてきた人生なら、それは、エベレストに登頂する事よりも難しかもしれません。
当たり前にあるそれ。
それに向き合ってとことん知ってみる。
そうしている時、正しいも間違いもそこにはありません。
目の前に起こっている事を知らないのに、悟りを知ろうとしている方は、エゴの働きで生きている方です。
エゴは、物事は言葉で表現に足りると考えてるからでもあります。
目の前の景色でさえ、言葉で言い尽くせない・・・
これは、当たり前といっていいほど、多くの方が知っている事です。
それなのに、なぜ、わからないのでしょうか?
眼横鼻直
これを知る事から始めるのが良いように思います。
そうはいっても、多くの方がやり方がわからないのではないでしょうか。
だからこそ、一人ひとり向き合って伝えています。