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感謝と徳と天意と ③天意

天意とは、調べてみると
天(造化の神)の意思、すなわち正しい道理。

という事ですが、それを意訳して、お話を綴っていこうと思います。

因みに

造化の神とは何ですか?

ぞうか【造化】 の 三神(さんしん)

( 「古事記‐序」にある「乾坤初分参神作二造化之首一」から ) 神道思想上で、万物生成化育の根元神とする三神。 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)三神の総称。
Google検索ではこのようになっています。


天意を知るという事は、見方によっては神を知るという事です。

神を知るという事を人間がしようととするなら・・・

人間は神を知ろうとします。

人間が神を知ろうとする時、人間は、神の事を想像します。

それはどういうことかというと、神の事を考えているだけなのです。

考えて知った気になるのが人間。

そして騙り、迷いの中にみんなで落ちていきます。


ここからが大事。

知るという事と、考えるという事に区別がつかない事。

これが人間を迷いの中に捕らえる大きな原因。

これを自覚できるなら、人間は迷いから解放され、自由になります、

そして、人として、神としてこの世を生きるようになります。

とても大切な事を書いていますが、そのことを読者は認識されているでしょうか。

考える事と知る事の違い

その本質を自覚できるようになることが大切です。


神、わたしが言う神は想像を在るようにする「それ」

ちょっと人間的な表現に合わせると、先ほどのこちら↓↓↓

ぞうか【造化】 の 三神(さんしん)

( 「古事記‐序」にある「乾坤初分参神作二造化之首一」から ) 神道思想上で、万物生成化育の根元神とする三神。 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)三神の総称。


さて、天意を知るためには、天意に気を取られるのではなく、知るという事がどういうことなのか自覚できる事が大切・・・というよりも、必須です。

知るという事を自覚できる。

その時、それそのものが、天意をまとっています。

伝ったでしょうか?

人間は、天意の事を知るのではなく考え、もしくは熟考します。

多くの方が熟考する事で答えを得たという「考え」に至ります。

答えとは、自分自身の思考によって生み出された「考え」にすぎないという事を知りません。

自覚するという事は、それを本質的に知っているという事。

自ずと天意に触れ実質的な理解ができるようになっていく事いう事です。


人間の傲慢

人間は、考え、考えたものを答えとします。

それが、真実かどうか?それをまた考え、議論します。

それを真実とした時(自分というエゴが納得した時)落ち着きを取り戻します。

自分が安心する為に真実があればよい

というのが人間です。

それを神は見ています(笑)

あたたかくでもなく、冷ややかでもなく・・・

そして、そこに、理が働きます。

そのあらわれを霊能者とサイキッカーと呼ばれるような方々が言葉にしています。

自覚人は、理を在るようにする「それ」に触れながら生きています。

ですから、外部の情報を聞くことなく、知っています。

そうなってきたとき、起こった事に対して、すべて、理の方程式通りに働いている事を知っています。

その自覚が、在るがまま、起こるがまま受け入れられる懐を在るようにしています。

考え方でなんとかしようとしている、巷のそれらとは全く違った出どころからの理解でもあります。

わたしが書く、すべてのnote、ブログの奥行が伝わったでしょうか?

考えの中に閉じ込められ、天意に触れられないという事はどういう事なのか伝わったでしょうか?

人類にとって、重要な事を書いているつもりです。

人間は表れた現象(ことわりさえ現象)を見てそれに意識を向けます。

それを別の表現をするなら、気を取られて、足元を見ていない状態になる。といえます。

自覚は、無理に実践するモノではありません。

そこに差し掛かった方は、自然にその道を歩みます。

現象界にあるメソッドと区別がつかないうちは、現象界のメソッドをとことんやる事が近道のように思います。

わたしは、一人ひとりがどのような進化を歩んでいくのかという事に関心があります。

自覚をしなければいけないという考えはありません。

しかし、自覚をお伝えしている中で、どんな方であっても、どんな形であっても、いずれは自覚の道を進んでいく事をしっています。

今、どこを進んでいようと、それはその方にとって肯定的な道の途中です。

宇宙、つまり理に一番抗う事は、停止、留まるそういった事です。

人間の思考停止の闇はとても深くなっています。

今年は、強烈にそれが動かされる年でもあります。

様々なところから軋み音が聞こえてくるでしょう。

多くのところで、目覚めの時といわれていますが、わたしから見ると、理に抗っていたその結果が露わになるという事であって、厳密に言うなら現象的な目覚めなのです。

目覚めたと考えられるような目覚めは、また、現象に囚われた目覚めです。

結果重視の目覚めのメソッド

目覚めたという夢を見させられているのかもしれません。


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