脱芸術至上主義との向き合い方—日本の音楽研究者がぶちあたっている壁—
私は日本の音楽業界に先輩がいません。日本で趣味で音楽をやっていた頃も音大受験については先生に
「音楽なんてお金にならないよー」
と言われて薦められなかったし、自信もなかった。そんな人間が脱サラしていきなりドイツの音大受験をしたのが数年前の話だ。そんなことでここでは「日本の音楽業界に先輩がいる人」には書けないことを書こうと思う。
大学はバイオリン演奏から始め、作曲もした。少なくとも演奏は凡人並みの能力しかないなあと思った。私みたいな凡人は世の中に多くいる。そういう凡人たちの共通する思いは
「やはりそれでも私は音楽が好きだ」
ということだと思う。
ドイツの大学院に入ってみてわかったことだけど、今の音楽研究は「ほぼ全ての分野が研究し尽くされている状態」だ。新しいアイデアをひねり出すのにみんな四苦八苦しているし、だからこそ、新しいことを言う人は叩かれるし、不当な扱いを受けることもある。
「これから音楽を研究する人は音楽以外の事に音楽をからめて研究しなきゃダメだよーん」
そんなことを言っていたある音楽学者がいた。カール・ダールハウスというベルリンの音楽学者だ。逆の考え方、つまり「音楽は音楽だけで価値があるんだ!」という考え方を「芸術至上主義」なんて言ったりする。
芸術至上主義からの脱却。聞こえはいいけど、音楽研究を通して社会をみる、政治をみる、思想をみる、環境をみる等。音楽を通じてAKBの女の子のスカートの短さを研究するのも、音楽を通じてあんぱんの嚙み口を研究するのも、音楽と関連しているなら芸術至上主義からの脱却なのかもしれない。
ドイツで音楽を研究していた日本人は「ウイーンの宮廷音楽の研究をしました!」とか「ブルックナーの研究をしていました!すごいでしょ!」とか、いかにも、ヨーロッパでしかえられない知識を体得してきた「体」を装う。しかし、内部の人間からすると、実はそれはすでに他の人が散々研究した「終わった研究」だったりする。
みんな音楽が好きだから、音楽だけを研究していたい。一度、論文を開けば譜例や周波数グラフが書かれてるといかにも音楽研究者という感じがする。ドイツで音楽を研究していると、様々な人種の音楽研究者の論文を目にするけど、日本人の音楽研究者はなかでも特に「楽曲分析」を好む傾向がある。そうすれば「音楽人」としての自分のアイデンティティが保てるし(特に私のような演奏の才がなかった人間はそう)近年深刻な問題になってきている社会、政治、思想、環境などについても
「私は音楽しかやりましぇーん!!」
と、学界・産業界の隅で知らぬふりをできる。一石二鳥というのが本音だ。
しかし、音楽は多くの人の関心をひくことができることには変わりはない。ジャンルは違えど、音楽が嫌いな人はほとんどいない。コロナで経済が落ち込むなか、音楽がどういう意味において人間に希望を与えられるのか。人間に反省のための気づきを与えられるのか。商売になりにくいものであることはたしかだけど、だからこそ、音楽研究者は踏んばらにゃと思う。