文体の舵をとれ練習帳

練習問題⑥ 2作品目


「痛っ」
 薔薇の茎部分を撫でるように水で洗っていた時だった。薔薇のとげが私の指先をぷすりと刺した。普段なら植物のとげが指に刺さるくらいなんて事は無い、声に出すような痛みでもなかった。だけどその時は、心臓が跳ねるくらい痛いと感じたのだ。私は血液のドームがぷくりと左手の中指に膨らむのを黙って見ていた。
「冬美さん、僕もう帰りますけど、他にすることなかったですか?」
「え……あ、ああ。もう大丈夫よ。今日もありがとうね」
 アルバイトの少年から声をかけられて、ようやく私は我に返った。そして流しっぱなしにしていた水を止めた。彼は「お疲れ様です」と一言、店を後にした。彼の背中を見た後、愛想笑いを解いてため息をついた。
 もう三十年だ。三十年。
 私が花屋を初めて三十年目の春だった。
 毎年春は忙しい。門出が多いからだ。忙しさの中で気が張り詰めていたから、痛みにあそこまで驚いたんだわ。
 気を取り直して、薔薇の水気を切った。洗い場の傍らにそれを置いて、指先が冷えた手をタオルで拭った。三十年も経てばいろんなところが脆くなる。若い頃は立派に働いた目も耳も皮膚も、筋肉も、今は見る影もない。流されるように歳を取ってしまった。新しい年が巡っても、新しい体が生まれてくるわけでは無い。古い垢の積もった、使い古された肉体が残るだけなのだ。
 ハリとうるおいの無くなった自分の手の甲を、悲しく見つめてからハンドクリームを塗った。それから椅子に腰かけ、肩を持ち上げて深呼吸をした。
 友人の墓参りをするため、毎年この時期になると必ず店休日を設けていた。命日が近いという理由ではない。彼女は春の似合う少女だった。それっぽっちの理由でこの繁忙期に必ず休みを取った。それっぽっちでも、私にとってはこの墓参りが春という存在そのものだったのだ。

 友人の名は春子と言う。彼女はいわゆる高校学園カーストのてっぺんにいるような華やかな少女である。お嬢様のように品のある巻き髪ツインテール、まつげの密度は高く、目を見開くと宝石みたいな眼球が零れ落ちてしまいそう。
 私と言えば、引っ込み思案で、教室の隅で読書をしているような少女なのだ。
 どうして私と春子が友人になれたのか。それは、私たち二人が魔法少女に選ばれたから。
「私、大人になったら花屋になるの」
 敵と戦っている時、突然彼女が言う。
「戦闘中に雑談するの辞めてくれる?」
 春子は時々そういうことをする癖がある。敵がそこまで強くないと判断すると、気を抜くのだ。春子の戦闘スタイルは猪突猛進型で、私はそれを後ろから追っかけて援護する。このやり方でバランスが取れているとお互い感じていたし、私は私で、あの春子のサポートが出来ていると誇らしく思っている。
「ごめんごめん! でもほら、雑談する余裕があるってことは、今回の敵は楽勝ってことじゃん?」
「ちゃんと敵を見て!」そう説教しようと、口を開けるが、すぐに閉じる。春子は三日月のように体を翻して敵の攻撃を避けている。本当に眩しい。彼女の戦い方は綺麗でかっこよくて、私の憧れ。
 宙を舞う彼女は柔らかく着地すると、私を見てにっこりとピースをする。私もつられて笑いそうになるのをこらえて、
「そういう油断がいつかピンチを生むわよ」
 と返す。
 今なら何度でもその言葉を自分に言うべきだったと後悔しているが、その時の私は、彼女と自分のそういう戦い方こそが一番だと甘えていたのだから、気付くはずもない。

 私の住む街は港町だった。友人の眠る墓は街の高台にあって、波止場と水平線まで一望できた。墓地までは長い階段を登るしかない。毎年毎年段々と登るのが苦痛になってきていた。あと何年登れるかしらね、と自嘲して彼女の墓前へ向かった。海風が強く吹く。彼女へ持って来た薔薇の花びらが散ってしまってはいけないと、手でそれを覆った。
 春は不思議な季節だった。毎年やってくるのに、毎年新しい顔をしてやってきた。
 
 私がきちんとトドメを刺さなかった、本来なら雑魚敵と呼ぶにふさわしい敵の攻撃を、正面から受けてしまった春子の腹からは、呼吸をするたびに血が溢れ出る。
「春が来ると新しい気持ちになるでしょ?」
 そんな状態で春子は落ち着いて言う。
 私の支えがなければ上体も起こせない彼女。私の気の緩みを彼女は責めない。でも私は違う。自分の彼女への甘えと、過信と、情ですら、全てが悪いものに思える。ごめんなさいと、私のせいでと喚くことしかできない。

 時間が経てば許せることもあるだろうが、きっとこれから先、どんなにボケて己がわからなくなろうと、この時のことだけは一生許すことはないだろう。
「いいや、何度生まれ変わったとしても」
 他に私以外誰もいない墓地で小さく嘆いた。

「私そんな人になりたかったの。いつだって新鮮で、明るくて、皆に芽吹きを与えられるような、春のような人に」
 これは春子の遺言、最後の言葉なんだと、私はようやく喚くのをやめて彼女の手を強く握る。どこへも、誰にも、連れて行かせたくはない。
「もうずっとずっとそうだったじゃない。私にとってあなただけ。私の先を行く、未来を照らしてたのは、あなただけよ」
 あなたを追いかけて、ここにいる。でも彼女はまた遠いところへ行こうとしている。
「ううん、気付いたの。芽吹く前の眠りの大地があるから、草花は春を迎えられるのよ。春にとって、冬こそが先を行くものなんだわ」
 春が一番新しい。そうでしょ。春が最初にやってくるじゃない。私は彼女の言葉を否定したい。私は彼女のためにここまでやってきたのだ。春が来るために存在しているのに。
「私が死んでもちゃんと春が来るわよ、冬美ちゃん。冬美ちゃんはしっかり者だもの、大丈夫」
 春子に冬美と呼ばれてハッとする。でもそのまま彼女はにっこり笑って動かなくなる。
 私はしばらく彼女が死んだことに気付かなくて、何度も何度も彼女の名を呼ぶ。
 
「また春が来たよ、春子ちゃん」
 花立の水を替えて、持ってきたバラを生けた。
「今年の薔薇も綺麗だよ」
 井戸で汲んできた水を墓石へかけて、雑巾で磨いた。
 心だった。私の青春の心全てが彼女だった。
 だから春子が死んでから、私は一度も泣けなかったのだ。
「また来年」と年取った心で呟いて、そっと目尻を拭った。

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