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早く本人に伝えないと、と、ボクは焦る
まだ和田誠さんが亡くなったショックを引きずっている。
ボクの中では山本夏彦さんが亡くなったときや丸谷才一さんが亡くなったと同じような喪失感である。
似たような喪失感を、山口瞳さんのときも、吉田秀和さんのときも感じた。小室直樹さんのときや黒田恭一さんのときや池田晶子さんのときも似ている。須賀敦子さんや向田邦子さんや立川談志家元のときも少し似てるかな(ちょっと違うんだけど)。
ちょっとキザっぽい言い方になるかもだけど、なんというか、必要以上に濃い闇を感じる夜、彼らは一隅を照らす灯りとして常に先を走っていてくれた。
遠くに常に「灯り」があり、絶えない光を発し続けてくれている、ということが、どれだけ前を向く勇気になっていたか、それは(情けないことに)なくしてみないと実感できなかったりするものだ。
縁起悪い話かもしれないが、ボクたちはいずれ松任谷由実もなくすし、桑田佳祐もなくす。
村上春樹もなくすし、よしもとばななもなくすし、大林宣彦もなくすし、山田洋次もなくす。
ボクたちは大切な「光」をなくし続けていく。
だからこそ、彼らの存在がどれだけ前を向く勇気になっているか、早くきちんと本人に伝えないと、と、ボクは焦る。
なぜなら、意外と本人には伝わっていないからだ。
加藤和彦さんが「これまでに作ってきた音楽というものが本当に必要だったのか」「死にたいと言うより生きていたくない、消えてしまいたい」と遺書に書いて自殺したことを知って以来、「意外と伝わっていないぞ」と気を引き締めるようになった。
先を走って「絶えない光を発し続けてくれている」ということがどれだけパワーがいるすごいことなのか。
彼らはそんな自覚なく勝手に生きているのかもしれないけど、でも、伝えなくちゃ。お返ししなくちゃ。そんな想いが年々強くなる。
矢野顕子が忌野清志郎の死の直後にライブでこう言った。
「忌野清志郎の葬式に4万人とか40万人とか集まったんだって? そんなのに集まれるくらいだったら、生きてるうちに来い! 生きてるうちに清志郎のライブ見ろ。生きてる矢野顕子も見に来い!」
そのとおりだなあ。
さぼってないで伝えないと。
伝える手段のひとつとして、せめて彼らの表現物にお金を使い続けたい。
若いときは(お金があまりなかったこともあって)、「評判いい小説だから」と本を買ったし、「いいアルバムらしいから」とLPやCDを買った。で、「今度のはあまり良くないらしい」なんて買うのをやめたりした。
でも最近は、ボクがお金を使って少しでも感謝が伝わるなら、と、良かろうが悪かろうが関係なく、サポーターみたいな気分でいろいろ買っている。
所有欲はもうないのだけど(どちらかというと断捨離志向)、でも、感謝のつもりで買っている。
お金で「まだあなたは多くの人に必要とされているんですよ」という気持ちが少しでも伝わるなら安いもんだ。
あとは、なるべく本人に会いに行って、ひと言でも伝えたいと願っている。
もしそんな瞬間が来たら、きっと緊張してどもっちゃいそうだけれども。
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