曖昧に生きたい
2年前から存在を知ってはいたものの、タイトルからなんとなく敬遠していた本を先週読んでみた。
『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』花田菜々子・著(河出文庫)
ヴィレッジヴァンガードから始まり、蔦屋家電や「パン屋の本屋」など、ユニークな書店の店長をつとめてきた花田菜々子さんによるエッセイだ。今は「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」の店長らしい。
離婚(しようと思って家出してネットカフェ暮らし)という人生の岐路にいた筆者が、ひょんなきっかけで出会い系サイトに登録し、そこで知り合った初対面の人との会話だけを頼りにその人に合った本を導き出し、本人に薦めるという「修行」をはじめる。タイトルそのままの話である。
しかし、タイトルにテンションの合わなさを感じて敬遠していた私のような人ほど逆にはまるのでは?と思うほど、良い意味で印象を裏切ってきて、のめりこんで読んでしまった。
急に出会い系サイトに登録し、「あなたにあった本を勧めます」というコンセプトで自己アピール、というなかなかクレイジーなことをはじめる筆者が、まず、基本的に人見知りタイプ(らしい)というところがいい。
おとなしく見せかけて、変化球の牙(?)を隠し持っている人が私は好きである。
そして、出会い系サイトで出会った人たちと筆者の関係の描き方が、人を性善説でも性悪説でも描いていない感じがしてとても良い。
「修行」の中で出会うのは、話が弾んでその人の人となりや人生を読み解くことができ、充実した「本のおすすめ」ができる相手もいれば、やはり出会い系サイトというからには、明るくストレートに女性とのワンナイトを狙ってくる男性やバレバレの嘘ばかりつく謎な人、セクハラまがいの人もいる。
その場では落ち込んだり腹が立ってたりはするものの、ふと「東京ってこんなマッドシティだったんだな」と世界が新しく見えたことを楽しんだり、自分自身にもある「マッド」な部分を認め、自分の常識からはかけ離れた人たちも織り交ぜたマッドな世界を最終的には「腑に落とす」心の広さがある。
その人に合う本を選ぶという繊細な行為は、そういう一歩先をゆく想像力というか、想像の奥行があるからこそできることだという気がする。
出会う人の中には気が合って仲の良い友達になった男性もいるが、その関係は恋愛には発展しないものである。そこでは、「友達だから何もないです」という優等生発言でも「もしかしたら何かあるのかな?」という心の声、でもなく、清濁織り交ぜた異性に対するリアルな感覚を提出しあったうえでの、ある意味健全な男女の友情が成り立っている。
性悪説もつらいが性善説もつらい。正義をふりかざす人が人を傷つけることもある。曖昧さを認め合えるのって一対一の関係でも尊いなあと感じる。
ちなみにこの本の解説分は社会学者の岸政彦さんが書いている。社会学者が解説を書いている、というところで、私がこの本を気に入ったこととつながった感じがしてやけに腑に落ちたのだが、
岸さんが社会学者として誰かの生活史をきく中で、「饒舌な語りが生まれる領域」というのは「まったく知らない」と「知りすぎている」の中間の領域なのだという。つまり、大事な人に限って大事なことが開示できない。
出会いについても「完全な偶然と完全な必然のあいだのどこかでで生まれる」のだろう、と岸さんは言っていたが、社会も人と人とのつながりも、何かの中間点、曖昧な部分から新しいものが生まれるのだなと思うと、システマティックに動く社会の中で、あえてマイペースをつらぬきちょっとずれた時間軸で動くSalmonsの存在ってきっと社会にとっても大事だな、と思いました(笑)