街を歩く自分を上空から見てみるとなんとちっぽけな それなのに映画の主人公このように日々振る舞う自分の言動はさぞ傲慢な 意味はなくとも勝手に自己を重要人物にしておきたいのだろうな
嫌いな無意識の自分を普段は蓋をしてるけれど、何かの拍子で顔を出してしまうときがある。 無意識の自分を悪と捉えてるだけかもしれないけど
とりあえず何かを呟いてみる。 その「とりあえず」には何があるんだろうか。 友達に内なる思いを知って欲しいから 社会に何かを発信してる自分が好きだから 周囲がハマっていることに乗り遅れないように 自分のことをどこかの誰かに知って欲しいから まだ出会ってない誰かと出会いたいから とりあえず呟いてどこかの誰かに発信をする 呟いて失敗をすると呟きをピタリと辞める この「つぶやき」に正解など本当はないけれど 何が正解かを作ってしまう。 世間の正解にピンポーンと当てて 一気に正
出会う人、すれ違う人 誰一人として同じ心の色を持った人はいなくて それぞれがそれぞれの価値観でもって 最善を選び生きている。 そこに誰かが「自分の色は正しい」と主張すると、 「違う!」と他の色を持った人間が対抗する。 しかし、互いに相手の色を見るよりも自分の色を主張する方へベクトルが向いている。 だから、もしかしたら互いに少しだけ色を変えれば調和するものも、その努力を怠った途端に、個人との衝突が生まれる。 人はそれぞれ違う色を持っている。 だけど相手の意見を聴きながら少し
人と話すとすごく疲れる。 相手からどう思われているか不安だな 人が多いところだと自分のことを悪く思われないか怖くなる そんなときは 相手の気持ちは「知らない」という前提に立ってみる。 相手が自分を嫌っているかどうかは明確な根拠がなければ決めることは出来ない。 相手が自分に対して何を感じているか、憶測しすぎると、声なき声を創り出して1人で苦しんでしまう。 だから、あえて無知の姿勢を取る。 もちろん100%無知の姿勢をとるのは難しい。 それでも、好き嫌いを考えすぎず「知らな
シンプルに そう、シンプルに動いていく 楽しかったら楽しいって言って これやってみたい!って思ったらやってみて これはやらないって思ったらやらない 悲しいときは思いっきり悲しいって言って 辛いときは辛いって叫んでみて 消えたいときはその気持ちを認めて 生きようって思って明日へ向かう 誰かに伝えるとき 誰かを思うとき それを思う自分がどう思われるとか 相手がどう感じるとか その未来が良いものになるのかどうなのか そんなことをいろいろ考えすぎちゃう日もあるけど 一旦、その
寄り道を肯定出来る人が1人でも増えたら 救われる人って何人いるんだろう。 「人生を最短距離で」 「効率的に生きていくには」 「無駄を省け」 こんなことが脳裏にこびりついてる僕らは ついつい休むことを肯定できない 寄り道してる自分を愛せない。 そうなっていないか。 寄り道、もしくはそれにニュアンスの近いことを 聴いたとき 「どんなところ行ったの??」 「何が印象的だった?」 「寄り道してきて表情良くなったね」 そんなことを言えたら 心から言えたら 言わなきゃではなく 心か
理論上、失敗なんて 世の中に存在しない 2019年 近畿大学の卒業式でキングコング西野が言ったこの言葉が、今僕の中で大きくなっている。 挑戦には失敗がつきもの しかし 辛かった過去も、涙する夜も 「失敗」で止めずに 挑戦し続けて上手くいけば 成功のための必要条件だったと知る。 このことから 世の中に失敗を作り出しているのは自分自身であること そして、失敗ではなく成功にアップデートできるのも自分だということが分かる。 僕らは、嬉しかった経験よりも 悲しい経験、しんどい経
選んでいただけだった。 僕の周りの人間関係は 全て僕が勝手に選んでいただけだった。 相手が僕を嫌っていると思い込み 自分から距離を置き 置くことで自分の選択を勝手に正当化していた しかし、相手の優しさに触れたとき 離れるという選択をした自分を全力で後悔した 僕が思っていた人間関係は ただ勝手に作り出してたに過ぎないのだと 4年近くずっと連絡を取っていなかった高校仲間から 突然LINEがきた 最近の近況を話ながら 「帰ってきたらご飯にでも行こう」 と言われた。 まさかそ
早いものでnoteを始めて1年が経ちました。 1年前、コロナ禍の中で何か新しいことを始めたい。 自分の考え・思考を発信するプラットホームとしていろんな記事を書いてきました✍🏻 ありがたいことに多くの人に読んでもらい さとみんの文章ってとっても考えさせられるよ って感想を頂いたときは嬉しかったです☺️ この一年 なるべく抱いた感情をそのまんま等身大に書いてみようと心がけてきました。 強がった文章って、ただ自分の欲求を満たすだけの文章に見えて なんだか読者の存在をどこかに
「コロナのばっかやろう!」 そう叫びたくなるときが周期的に訪れる。 コロナがなければ… タイに1人でパッキング旅行できた もう一度ミャンマーに行けた 日本中もっと旅行できた。 所属サークルの活動ができた 仲間の悲しむ顔を見ることがなかった 日本の自殺者が減った 世界中の悲しみの声をこんなに聞くことはなかった。 なぜ、世の中はこんなにも残酷なのだろう。 コロナという歯車は それはそれはおっきくて 世界人口70億人以上の力を結集しても 歯車を止めることはできない。 むしろこ
主よ 慰められるよりは 慰めることを求められますように 理解されるよりは 理解されることを 愛されるよりは 愛すること 私たちは与えられることにおいて 与えられ 赦すことにおいて 赦され 死ぬことにおいて 永遠の命を手に入れることができるのです (アッシンジのフランチェスコ 平和の祈りより) 2年前、私がマレーシアに行ったとき、与えれた大切な言葉です。 与えられることにおいて与えられる。 私たちは誰かに何かを与えるときにどうしても見返りを求めてしまう。 そして、見返りがな
朝、日が昇る前ってすごくうきうきしませんか?? 今日、一日が始まる瞬間 これから何が始まるんだろって 他の人より早く一日をスタートできた優越感 この世界が実は僕しかいなかったのではないかと錯覚してしまうような寂しさ そして、今日の自分に対する期待感。 気づいたら、自分への期待はどんどん肥大化し ただの理想論でしかないと気づく。 そんな自分も自分なんだなぁと 少し絶望しながら 自分はやっぱり不完全なんだなと なんだか愛おしくもなる。 そんな自分の感情を1つ1つ噛み締めなが
「自分のことが好きだ!」 素直に自分に対して言えますか?? 言える!と断言できればいいのですが、なんか断言してる人を見ると「本当に?見かけだけじゃない?」って思ってしまうときもあります。 正直、僕は「自分のこと好きだ!」と 周りへ堂々とは言えない。 でも、 「自分のこと嫌いですか?」 って聞かれたら 「いや、そんなことは無い!」 と断言できる。 それは過去これまでに 僕のことを認めてくれた言葉があったから 「ありがとう」の言葉があったから。 「自分のことが嫌い」と言って
傾聴の「傾」の字 相手へ関心の矢印を向けること。 心の意識を傾けること。 「自分のため」にではなく「相手のため」に耳を向けること。 傾聴の「聴」の字 この漢字には体の3つの部分がある。 「目」と「耳」と「心」 この3つの部分をフル活用して、相手の話を聴く。 受容的な姿勢で相手の話を味わう。 「傾」と「聴」 これらをちょっとずつ意識するようになって2年程。 少しずつだけど相手の話を言葉そのものの表面だけでなく、裏側も想像できるようになったのかなと自分では思っているものの本
2020年 皆様、本当に本当に大変な1年でしたね。 そして、本当に本当にお疲れ様です。 見えないものがもし見えるなら 私たちの1年は大きく変わっていたかもしれない。 挑戦することが許されない悔しさも 会いたい人に会えない悲しさも 行きたい場所に行けないもどかしさも 全てなかったのかもしれない。 許されるなら、もし許されるなら 2020年をもう1度ください。 そう言っても時間は止まってくれない。 「中止」「中止」「中止」 「最多」「最多」「最多」 抗えない現実。