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黒い兎

裏庭のにわとり一羽きえたころ
九人家族は満腹だった

2022年の読売歌壇『年間賞』にえらばれたという岩瀬悦子さんの短歌にであう。
それぞれ、まんぷくになったという九人の心の内に思いを馳せているとき、昔飼っていた黒い兎のことを思い出した。

東京大空襲の直前、六歳で母方祖父母の住む亀岡の篠村に疎開してきた私は、終戦後もそこに住み小学校3年生になった。
戦中から続く食糧難や住宅難は戦後二年が過ぎても変わらず、世の中は疲弊しきっていたように思う。

そんななか、戦争で焼け出されたという祖父の知人が、隣の納屋を改造して越してきた。裏の空き地にリンゴ箱で作った小屋を並べ、多くの兎を買っている。行き来が自由にできる裏道を通って私は、毎日それを見に行った。

ある朝、一つの小屋の隅に小さなものが塊になってうごめいてるのに気づく。聞けば昨晩、子供が生まれたのだという。薄い桃色をした肌を寄せ合っている塊が兎の赤ちゃんだとは到底思えず、来る日もくる日も、私は小屋の奥をのぞいていた。

『おっちゃんは、兎に子供を生ませて人に売る商売をしてんのや。兎が好きなら1匹あげよか』家に走り帰り祖父に話すと、『自分で世話ができるのなら1匹だけ、、、』という。私は即座に『ーーする』と言い切った。

1週間もすると生まれた赤ちゃん兎がゆっくりと動き始める。つるつるの皮膚から薄茶色の産毛が生え始め、それは日毎にフワフワの綿毛に変わっていった。初めて見る可愛いい子兎に、私はいっそうひきつけられた。

2ヶ月が過ぎたころ、待ちに待った兎をもらう。鼻先が少し白く、透き通るような美しい赤い目の黒兎である。
私はすでに決めていた名前で初めて『うーちゃん』と呼んだ。


小屋の中の藁を毎日取り替え、水を新しくして、飽かず世話をする。膝に乗せ、乾いた布で毛並みを整えてやると、暴れることなくおとなしい。餌は新鮮な物をと毎日、野原へ採りにいく。タンポポを引き抜くと根元から白い汁液が流れ落ちる。それが母親の乳のように思えて、他の草とともにかならず一株与えたものだ。

一年半が過ぎると、あの小さかった子兎も立派な大人である。抱き上げると私の腕の中で、もつじっとはしてはいない。引っかき、蹴飛ばされても、それはそれでまた、可愛かった。


その年の秋、戦争で長い間とだえていた村祭りが規模を小さくして行われるという。神輿も出ると聞けば、やはり心が逸った。
急いで学校から帰り、いつも通りに兎小屋にいく。空であった。〈散歩をさせてもらってるのだろう〉
驚くこともなく裏に出てみると、皮を剥ぎ取られ、頭のない細長い何かが、後ろ足を縛られ木にぶらさがっているのを見た。
(うーちゃんや)
と、思った瞬間、私の胸は張り裂けた。口もきけず、兎小屋に戻り、その後ろに隠れて泣いて、泣いて、、、いつしか、眠っていた。


夕方、何事もなかったように出ていくと、つねづね世話になっている親戚の小父さんふたりも交えて、みなは鍋を囲み、祭りの余韻を楽しんでいるようであった。
『あんたもはようご飯、おあがり』
義叔母がすすめてくれる。
人に夕飯を振舞うなど、久しく見たことのない光景であった。笑い声をたてつつみんな幸せそうにしている。
このような瞬間を、私もやはり嬉しいと思った。

『〇〇が、米をつかんでようやってたさけ(よく食べさせていたから)、香ばしくて旨い』祖父の舌鼓を聞いて、うーちゃんはこのためにうちに来て育てられたのかもしれないと思い、何も言わなかった。

こどもの心を推し量る余裕などない殺伐としたこの時代、食べられるものはなんでも食べて命を繋いだ。
これが戦中、戦後の悲惨な現実であったのだと、振りかえる。

そんななかで行われたささやかな秋祭り、人を招いて一緒に食事をするということが、私にとってどれほど平和の兆しにおもえたことか。
みんなが幸せになれるのなら、うーちゃんも許してくれるような気がして、もう泣くのをやめた。

岩瀬悦子さんの短歌のなかに見る命の連鎖は、平和の下で、どこまでも人の幸せにつながっていくことだろう。そう願いつつ読ませてもらう。

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