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母の死

わたしが中学2年生の頃だったと思う、それまで祖父母と同居していた家の向かい側の土地に、父が家を建て、両親とわたしたちきょうだい(わたしと弟と妹)は、新居へと移った。

別居の理由は、両親と祖父母のあいだ、特に父と祖父のあいだの不和だった。
あたらしい家に移り、父は、これでやっと母も少し羽を伸ばせるのではないか、と思っていたようだ。
けれども、母は、その家に長く住むことはなかった。

弟が中学に入学し、わたしが3年生になった4月に、母は亡くなった。
40歳だった。

その週は、中学校の家庭訪問の週だった。

放課後、部活中に救急車の音が聞こえた後、家庭訪問に行っていたはずの担任教師が体育館にやって来てわたしを呼ぶので、もしかしておばあちゃんが倒れたのではないか、という考えが頭を過ぎった。
でも、倒れたのは母だった。

「お母さんが救急車で運ばれたらしい。家まで車で送るから、すぐ帰る支度をしなさい」

そう言われて帰宅したが、母屋(祖父母の家)の玄関で出迎えた祖母に「お母さんは?」と訊くと、悲痛な面持ちで、「それが、だめだったって……」という言葉が返ってきた。

その答えは、あまりに予期していない答えだったので、わたしの脳にその意味が届くまで、数秒の間があった。
だめ? だめって、いったいどういう意味……?というかんじだ。

何が起きているのか、わからなかった。


話を聞いてみると、母は、見つかったときにはすでに死後数時間が経っていたようだ。
それでも、救急車はいちおう、「患者」を病院へと運ばなくてはならないのだ。

その日、弟の担任教師が、家庭訪問のため約束の時間に訪れたところ、ドアの鍵は開いていたのに、ドアチャイムを押しても応答がなかったという。

母は昼に料理をしているあいだに具合が悪くなったらしく、ガス火は自動で止まっていて事なきを得たが、わたしが帰宅した際にも、焦げ付いた鍋の異臭が鼻を突いたくらいだから、教師も何かおかしいと思ったのだろう、彼は隣家(いとこの一家の家だった)に人を呼びに行った。
そうして、やってきた叔母が、キッチンの隣の和室で横たわっていた母を見つけてくれた。

たぶん、料理をしていて気分が悪くなり、ほんのいっとき休むつもりで横になったまま、亡くなったのだろうという話だった。

世界がある日とつぜん予期しない方向に変わって、二度とふたたび元通りにはならないことがある、ということを、このときわたしは体験した。

実際のところ、世界は毎分毎秒変わり続けているし、いつだって物質世界の時間が逆戻りすることなどないわけだけれど、でも、時間というのは不可逆なのだ、ということをこれほどまでに強烈に体験したのは、これがはじめてだった。

けさ、「いってきます」「いってらっしゃい」という言葉を交わし、当然帰宅したらまた会うはずだったひとが、帰ってみたら、とつぜんいない、もう二度と会うことはない、という体験。


ある意味においては、わたしの人生はこの日に始まったと思う。

ずーっと後になって、30歳を過ぎてから、
「なぜ、何がきっかけで奇跡のコースを学び始めたのですか」
とか、
「なぜ、どのようにしてスリランカに住むことになったのですか」
といった質問を、くり返し尋ねられるようになったとき、おおもとを辿れば、「14歳のときに母が亡くなって……」というところから、話を始めることとなる。


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