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母の死 2

母の死にまつわるエピソードで、わたしが昔もっていた、奇妙な性格の偏り(と、いまは思える)を端的にあらわす話がいくつかある。

母が亡くなったその日、学校から帰宅した後、わたしは、人の出入りの激しい母屋(祖父母の家)の居間のソファに座っていた。

大人たちが、あちこちへの連絡やら葬式の手配やらで忙しくしているなか、部屋のなかに座っていた中学に上がったばかりの弟が、おもむろに書棚にあった家族写真のアルバムを取り出し、畳の上に広げてページをめくり始めた。

わたしは、この時点でぎょっとしていた。「え、いま? 」と思った。
つまり、当時のわたしにとっては、「わたしなら、いまこの状況で、ぜったいにそんなことはしない」と思える行為だった。

つぎの瞬間、弟は、「うわああーーーん」と声を上げて泣き出した。

いま振り返れば、弟の行動はものすごく健全で素直だったと思う。
彼は、母親がとつぜん死んだ、もう物理的には二度と会うことが叶わない、という事実を、彼なりの方法で受け入れていたのだなあと思う。

ところが、わたしはとっさに弟に「ちょっと来て」と言って、人気のない家の奥の廊下へと連れて行き、「自分よりちいさい妹の前で、あんなふうに振る舞うべきではない。不安にさせてしまう」というようなことを言った。

妹は9歳だった。でも弟も12歳だった。
どう考えても、わたしの言ってることのほうがおかしい。
母親が死んだのだから、声をあげて泣けるのは自然なことだ。

でもわたしという人間は、そういうふうにはできていなかった。

当時のわたしにとって、人前で声を上げて泣くなど恐ろしいことで、そんなことをすれば悲しみがあふれるとわかっていながら、わざわざ大勢の人の前でアルバムを開くことが理解できなかった。

わたしはなぜか子どもながらに、体面を保つ、ということや、年長者は庇護すべき対象の前で不安にさせる態度をとるべきではない、ということが、大事だと思っていた。
ふしぎなのは、そのように躾けられて育てられたわけではなく、きょうだいの内でそんな価値観をもっていたのは、わたしだけだということだ。
(ずっと後になって、大人になってから、この気質の原因となるような前世を見たことは、ある。)

ちなみに、このときのことについては、20年くらい経ってから弟に、「覚えていないかもしれないけど、あのときはごめんね。わたしが間違っていた」と謝った。

さてまた、この「人前で弱みなどさらけ出したくない」というおんなじ防衛のために、この日わたしは、「ねえ、あした、いつもどおりに学校に行ってもいい?」と大人たちに訊いた。「学校、休みたくない」と訴えた。

即座に叔父が、「えっ、そりゃだめだよ!」と言ったけれど、父が「いいよ、いいよ。あしたは葬式じゃないんだし、好きにさせてやりな」と言ってくれて、わたしの願望は通った。

心底ほっとした。
切実に、学校に行きたかった。
あした学校を休んだりしたら、わが身に降りかかった事の大きさを認めてしまうことになる、そうしたら何かが崩れてしまう、という感覚だったのだと思う。

ところで、わたしは当時、学級委員だった。
担任のS先生は、学級委員は毎朝、いち早く登校して職員室に御用聞きに来るように、という人だったので、翌日も朝いちばんで職員室に顔を出すと、さすがに先生もびっくりしていた。

一瞬、「えっ、来たの!?」という顔をしてはいたが(担任教師だけでなく、その場にいた学年の教師陣が皆、おなじ顔をしていた)、何か感じるところがあったのか、深く問い質したりはしないでくれたのが、ありがたかった。

けれども、朝のホームルーム前、教室でクラスメイトたちと話しているとき、「あれ、このまま行くと、朝のホームルームで母の訃報が報告される流れでは」ということに思い至った。
本来なら、忌引きで休んでいるはずのわたしが教室にいるので、わたしの目の前で、クラスメイトたちに訃報が告げられることになる。
それは想像するだに、いたたまれなかった。

そんな状況で、周囲の耳目を一身に浴びながら、泣き出したりしたら目も当てられない。
それだけは、避けたい……。

わたしはこっそり教室を抜け出して、廊下でS先生を待ち伏せした。
やってきた先生を捕まえ、「先生、お母さんのこと、クラスのみんなには、内緒にしてください」と頼み込んだ。

先生は困惑して、「そういうわけには、いかないんだよ……」と言ったけれど、必死に頼むわたしに、最後には折れてくれた。

それでどうなったかというと、その日、担任教師が担当する数学の授業が始まるとき、学年主任の先生がクラスに顔を出して、「えりこ、ちょっとおいで」とわたしを連れ出した。

学年主任のA先生は生徒指導室で、自分の母親が亡くなったときの話をして、「だけど、そのとき先生、身体を離れたお母さんが、自分の心のなかに入ったと感じたんだよ。生きていた頃より、いまはずっと近くにいると感じるんだよ」と話してくれた。

当時のわたしにとっては、亡くなった母を「より近くに」など感じられてはいなかったにも関わらず、先生の言っていることは、なぜかとてもよくわかったので、わたしは素直にうなずきながら聞いていた。

このA先生は、とても迫力のあるオーラの(つまりちょっと怖いかんじの)人だったのだけれど、このときほんとうに寄り添ってくれているのを感じたので、わたしの心はあたたかかった。

先生は、最後に付け加えた。
「それでな、えりこ。朝、S先生に、お母さんのことをみんなに言わないでくれって頼んだろ。
俺がえりこをここに呼んだから、その時点でもうわかってるかもれないけど、いまS先生が、お母さんのことをクラスで報告しているんだ。S先生を恨まないでくれな」

そうだろうなあとは思っていた。
恨んだりしていなかったし、先生たちが相談して、その報告の場からわたしを連れ出してくれたことが、ただありがたかったし、申し訳なかった。

クラスに戻ってみると、しんみりとしてはいたがあたたかい雰囲気でクラスメイトたちに迎えられた。
わざとらしい言葉や態度ではなく、腫れ物にさわるようでもなく、ただ寄り添われて思いやられているというかんじで、居心地の悪さはなかった。

S先生がどのようにみんなに話したのかはわからないけれど、母親の死の翌日に意地を張って登校して、その上で朝のホームルームで訃報を報告されたくないと駄々をこねた、という話も伝わっていたろうから、ただ単に親が死んだという報告以上に、わたしの内面の動きがみんなには理解できたのかもしれない。

この日の登校は、わたしの意固地なプライドの高さから出た行動だったけれど、それでも先生やクラスメイトたちのおかげで、素直に泣くこともできないわたしの頑なな心が少し柔らかくなることができたので、結果としては学校に行ってよかったのかもしれない、と、いまこれを書きながら思った。


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