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記憶

それは夏のよく晴れた朝のことで、わたしは小学1年生か2年生だった。

いまはもうない生家の、玄関の上がり框に腰掛けていた。
玄関の引き戸は、家に家人がいる夏の日にはいつもそうであったように、開け放たれていた。

上がり框に腰掛けて、出かけようとしていたのか、何をしようとしていたのかは覚えていない。

とつぜん、頭のなかか、頭の右上のあたりから、だれかが音のない、言葉でもない声でささやいた。

その声が言ったのは、あえて言葉にするなら、
「おまえの母親は、早くに亡くなるだろう」
というような内容だった。
でも実際は、ひらめきのような、一瞬のものだった。

つぎの瞬間、わたしは火がついたように泣き出し、お母さん、やだあ、死なないで、と叫びながら、庭で洗濯物を干していた母に走り寄って、その腰にしがみついた。

少し離れたところで庭いじりをしていた祖母がびっくりして立ち上がり、「なんだ、なんだ、どうした」と言った。

母は、驚き笑いつつも、わたしをあやした。
「死なないよ、えりちゃんどうしたの、だいじょうぶ死なないから」

でもわたしはどうしても悲しくて、わあああんわあああん、と本気で泣いていた。

いま思い出すと、なぜ突然そんなふうになったのか脈絡がなさすぎて、ほんとうにあった出来事なのか、母が亡くなった後でわたしが作り出した記憶なのではないか、と首をかしげたくなるけれど、突拍子もないわたしの言動に笑う母や祖母の光景をはっきり覚えている。
たぶん、実際の記憶なのだ。

母は、だいじょうぶ、死なない、とわたしに請け合ったとおり、それからすぐに亡くなるようなことはなかった。

母が亡くなったのは、わたしが14歳のとき、中学3年の4月のことだ。
心臓発作だった。


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