母の死 3
閑話休題。
学年主任のA先生が、
「先生のお母さんが亡くなったときな、お母さんがまるで、自分の内側に入ったような気がしたんだよ。先生な、お母さんは、からだのなかに生きていたときよりも、ずっと近くなったという気がするんだよ」
と話してくれたとき、わたしは、先生の言っていることがとてもよくわかる、と思った。
でも、なぜわかると思ったのだろう、ふしぎだ。
なぜって、わたし自身は、そんなふうには、まるで感じていなかったのだ。
母の亡くなった日の夜、まだ呆然としながら自分の部屋のベッドの上で、すでに母のことをよく思い出せないことに気づいた。
頭のなかに靄がかかっているような、母の記憶と自分のあいだに、空気の壁があるようなかんじ。
顔も声も、思い出せる。今朝、別れたばかり、最後に会ってから24時間も経っていない。
でも、お母さんて、どんなひとだったっけ……。
この感覚は、長く、たぶん10年くらい続いた。
傷ついた心の防衛のためなのだろうとわかってはいても、娘にこんなふうにあっさり忘れられる母は、かわいそうだな、と思ったりした。
また、わたしは、幼い頃からおばあちゃんっ子だったので、「いつかおばあちゃんが死んじゃったら、おばあちゃんのこともこんなふうに忘れてしまうのだろうか」と思って、それも、それから長いあいだ怖かった。
母の通夜と葬式には、たくさんのひとが来てくれたらしい。
お寺のひとから、一般家庭の主婦のお葬式に、こんなに参列者がいるのはめずらしい、と言われたほどだ。
30年前の田舎のことで、祖父母の住む母屋には広い座敷もあったので、通夜は自宅で行われた。
床の間のある和室に座って、ひとしきり弔問客の挨拶を受けたあと、外の空気を吸いに庭先に出ると、まだ外にとどまって、三々五々、立ち話をしているひとがたくさんいた。
わたしを見つけ、2、3人の、母と同じくらいの年代の女性たちが、「あ、ほら、えりちゃん出てきた……」と寄ってきた。
「えりちゃん……、お母さん、残念だったね……」と口々にお悔やみを言う。
母の友人たちなのか、それともわたしか弟の同級生のお母さんたちなのか、顔を見てもわからなくて、挨拶しながらも「えーと、誰だろう。向こうはわたしを知っているみたい……」などと考えていると、そのうちのひとりが、こう言った。
「お母さんね、ほんとに、無念だったと思うよ。えりちゃんたちみたいな、かわいい子たちを置いていくの……」
きっと、彼女も誰かの「お母さん」で、母の境遇にわが身を重ね、「自分だったら、とても無念だろうな」と思っての言だったのだろう。
それに、わたしを思いやって言ってくれた言葉なのだということも、もちろん理解できた。
けれども、この言葉はわたしにとって、静かな衝撃だった。
「そうか、年端もいかないわが子を遺して、40歳で死ぬ、っていうのは、無念なことなんだ」
14歳のわたしは、こう思った。
「じゃあ、お母さんの人生って、無念な人生だったの?」
だって、生きていれば、無念なできごとを帳消しにする未来もあるかもしれないけれど、もう人生が終わってしまったからには、「最後の心残り」を、どうやっても取り返すことはできないではないか……。
わたしの心のなかの問いは、さらに続いた。
だけどじゃあ、どんな人生が無念じゃない人生なの?
健康で長生きして、天寿をまっとうできたら、無念じゃないんだろうか。
……必ずしもそうとは、言えない気がする。
短くても長くても、「これをやった」と、やるべき何かを成し遂げたら、無念じゃないのだろうか。
そんなふうにつらつら考えて、いちばん最後に行きついた疑問。
それは、
「人の人生の価値って、いったい何によって決まるんだろうか」
というものだった。
この疑問について、このあと数年のあいだ、わたしはたびたび考えることになる。