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いのちの価値
14歳のとき、母の死をきっかけに、
「人のいのちの価値は、何で決まるのだろう」
と考えるようになった。
短い人生は、何かが足りない人生なのだろうか。
もちろん、そんなはずはない。
短くても濃く生きるひともいれば、長くても後悔ばかりのひともいる。
では、何かを成し遂げたり、他者に貢献できるもののある人生が、後悔することの少ない人生が、意味のある人生なのだろうか。
そうでない人生は、価値が劣るのだろうか……。
どのように生きたかで価値が決まるとしたら、それはなんだか恐ろしいことのように思えた。
だって、母の人生は終わってしまっていて、もう永遠に取り返しがつかない。
そんなふうにつらつらと考えているうちに、もうひとつの恐れが心に生まれた。
「もしわたしが、この人生で為すべきことを決めて生まれてきたとして、それに気づくことなく人生を終えてしまったら、どうしよう」
自分が死ぬとき、この人生が何のためだったのかわからない、と思うことは、想像するだに恐ろしいことだった。
「人のいのちの価値は、何で決まるのだろう」
「人は生まれてくる前に、人生の課題を決めてくるのではないだろうか」
このふたつの疑問は、以来、何度も何度もくり返し心に浮かぶことになったけれど、前者については、母の死から数年が経ったとき、はっきりとした答えが訪れた。
きっかけが何だったのか、思い出せない。
たぶん、17、8歳の頃だった。
あるときふと、誰かのいのちの価値を量ろうとするなんて、ほんとに不遜だ、と思ったのだった。
どんな人生であろうと、価値がないなどということはあり得ない。
なんでそんなこと、わからなかったのだろう。
そして同時に、ただ「わたしが」しあわせになればいいのだ、と気づいた。
なぜそう思ったのかというと、これも何がきっかけだったのか思い出せないのだけれど、
「ひとりの人間の人生とは、そのひと自身のなかで完結するわけではなく、そのひとが関わるすべてのもの、すべての人との関係でなりたっている」
ということが、突然腹に落ちたのだ。
そうであるとしたら、母のいのちは、母の肉体が終わったときに終わったわけではないのだった。
わたしの人生や、母と関わったすべての人びとと、つながっているのだ。
そしてまた、もしわたしが心の底からしあわせで、自分の人生に満足できるなら、その瞬間においてわたしは、それまで自分の人生に起きたすべての出来事を肯定し、関わるすべての人を祝福することになるのだ、ということに気づいた。
起きた出来事、出会った人の何ひとつ、自分の人生を見るわたし自身の知覚に、闇を落とすことはなかった、と言えるということ。
そのように自分の人生を肯定して祝福できるとき、わたしは自分の人生に関わったすべての人に、
「あなたとの出会いが、わたしの人生を意義あるものにしました」
と言うことができる。
それはつまり、自分自身を祝福することと、相手を祝福することは、ひとつのことなのだ、それは同時に起きることなのだ、という気づきだった。
そしてそのようにしてわたしが生きるなら、時間においてはすでに過去に終ってしまった母の人生にも、価値を加えることができるのだ、と思った。
……それならば。
わたしはこの人生を、「祝福する」ことのために使おう、と思った。
これはずっとずっと後になってから、とても大切な洞察だったと知ることになるのだけれど、このときはまだ、漠然としていた。
また、それがどのようにしたら為し遂げられるのか、10代のわたしには、まだわからないままだった。
ただ理想を抱き、そのために努力して、がんばってしあわせにならなくてはいけないような気がしていた。