聖霊の意見を訊くということ
(以下の記事は、旧ブログ「ひかりのはな」の過去記事からの転載です。→ 元記事)
先日、台所に立って調理するあいだ、これを聴いていた。
このなかで、故ケン・ワプニク博士の生徒だった女性が質問をしている。(131:15〜)
その内容とは、要約すると、
というもの。
ワプニク先生が、くだんの発言をするのを、私も確かにどこかで読んだか観たかした覚えがあるので、この質問には興味を引かれた。
対するデイヴィッドの答えの要約。(133:10〜)
その上で、デイヴィッドは、あるとき妹(お姉さんかな?)から、「教会からあなたに講演をしてほしいと依頼が来てるわよ」と言われたときの話をしている。
詳しくは、英語のできる方はぜひ直接の音源に触れてみてほしい(該当箇所は、引用文の前に始まる分数が書いてあります)。
この話を聞いて思ったことは、ほんとうに私たちは、「自分は何も知らない、わかっていない」というスタンスを貫くのがとても大事で、かたちの上でコースの教師から学ぶ概念についても、いちいち、鵜呑みにするのではなく聖霊とともに聴かなくてはならない、ということだった。
蛇足ではあるが、ここで私が書きたかったのは、「(コースの権威である)ケン・ワプニクが言ったからといってそれが必ずしも正しいとは限らない」ということではあるが、「デイヴィッドのほうが優れた教師だから、両者の意見が食い違うとき、ケンよりもデイヴィッドの意見のほうが正しい」ということではない。
そうではなくて、あくまでも、先入観なしで聖霊とともに聴かなくてはならない、「ケンが(またはデイヴィッドが)こう説明しているけど、このことについてあなた(聖霊)の意見を聞きたい」というスタンスがなければならない、と思った、ということだ。
もし教師が確かに聖霊の意見を代弁しており、なおかつ私がそれを自我に曲解させずに、きちんと聖霊とともに聞いて理解するなら、そのとき、私の心のなかには、誰に対するジャッジメントも起こらないはずだ、ということ。
反対に、何らかの「釈然としない感じ」や「誰かを責めたり、何かを批判したい気持ち」が心に湧くとすれば、私が聖霊の解釈を聞き取らなかったことは明白だということ。
これまでにも、私はデイヴィッドが、
「聖書の解釈を批判することには意味がない。
アビラのテレサも、マイスター・エックハルトも、マザーテレサも、コースは持っていなかった。聖書しか持っていなかったが、同じ道を歩いた。聖書から同じ体験に至ることは可能だよ」
と説くのを、何度も聞いた。
あるとき、デイヴィッドがした何かの説明に対し、参加者から、
「でも、ケン・ワプニクは、こう言っています。それについては、どう思われますか」
という質問が出たことがある。
(私の記憶が確かならそれは、デイヴィッドが、コースを真に生きるなら、あなたはこの世界の考える「ふつう」からは外れた生き方をすることになるだろう、という意味の発言をしたことに対し、「ワプニク博士は、ふつうでありなさい、と言っています」という反論だった。)
そのときのデイヴィッドの答えは、こうだった。
「ケンが何と言ったかは、忘れなさい。
デイヴィッドが何と言ったかも、忘れなさい。
『この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい』(レッスン189からの引用)」
それは、こういう意味ではないだろうか。
「静かになり、内側へと向かい、あなた自身で聖霊に聞いてごらん。」
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