【鑑賞ノート】2.マックィーン モードの反逆児(映画)
マックィーンのコレクションを初めて見たのは大学院生の頃だった。海外のファッションショー番組をBSで見たのではなかったかと思う。シャネルやディオールなどのオートクチュールのコレクションはきらびやかで見ているだけで華やかで美しかった。そんななかで見たマックイーンのコレクションは、少しダークネスで、ゴスロリチックで、でも、桁違いにとてつもなく美しかった。
常々、服は社会的なものであると思っている。何を着るのか、その時々の選択に私たちはいろいろな場面や条件を重ねる。今日の天気は?スケジュールは?誰と会う?自分をどのように見せたい?今の流行は?また、感情的なものでもあると思う。気分は?どのように見られたい?今の体型に合うのは?そういうことを考えながら服を選んでいるのではないか。服を買う時もそうだ。自分に似合う、持っている服に合うということの他に、デートのときに着よう、演奏会に着ていこう、野球観戦のときに着ようなどと着る時や場面を想定したり、彼や彼女にかわいい・かっこいいと思われたいなとか強く見せよう、おしとやかに見せようという打算的に買うこともあるだろう。だから、もらいものやお下がりの服がタンスのこやしになりやすいのは、着る時や場面を想定することなしに、そして自分の感情なしに得た服だからと考えると、さもありなんではないか。服を選ぶということはいろいろな思考と感情を働かせているのである。たかが服されど服である。そして、その究極は、思想、哲学、価値観で、マックィーンのコレクションを見ると、彼の生き方が表現されていることが分かる。
映画「マックィーン モードの反逆児」は彼の生前の映像を交えながら、親しい人たちの証言で構成されるドキュメンタリー形式の映画である。ほぼ時系列に沿って構成されていて、モード業界で成功するのと反比例するように、彼の天真爛漫な笑顔が陰っていくのが印象的である。年に14回ものコレクションをこなすことのプレッシャーがいかほどのものか、素人には到底分からない。たしかに、マックィーンは天才だと思う。しかし、一方で、もろく、よわい。社会的な闇にとらわれたところも多い。虐待、ゲイ差別を受け、さらに薬付けにもなる。ただ、一方で、彼がこういう体験を経ていなければ、あの奇抜で狂気的で退廃的なデザインは生まれなかったのではないかと思うと、社会的な闇もまた彼にとって必然的なものであったのだろうか。
それにしても、なぜ人間は負の部分にも美を見出そうとするのか。いや、それは「美」なのであろうか。マックィーンのコレクションには時として、暴力的、病的、狂気的なところがある。たしかに、一瞬目を背けたくなるようなデザインがある。それでも、そのデザインに惹かれ、エログロナンセンスの耽美的な世界を求めるのはなぜだろうか。真善美のみでは人は生きられない。そういうことを考えるといつもたどり着く狂歌がある。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」人が生きるということは、カオスの世界に生きることであり、カオスな世界に生じた真善美は偽悪醜があるからこそ生じたものに過ぎない。このことについてはもう少し追究してみたい。
こんなにも感情的な服やデザインは見たことがない、というのが最初にアレキサンダー・マックイーンのデザインを見たときの衝撃であった。
彼の壮絶な人生が織りなす狂気的で退廃的なデザインは、ときに醜悪なものを放ちながらも圧倒的な美を持って迫ってくる。身を削りながら、服を創造していく姿には唖然とするばかりである。才能もさることながら、虐待やゲイ差別をうけたという彼のおかれた状況全てがその服を、そのデザインを生み出すために存在したとしか言いようのないほどの完璧な予定調和である。マックイーンのデザインには感情がまとわりついているように感じられる。喜び、愛しさ、嬉しさ、楽しさ、寂しさ、悲しさ、傷み、哀れ、怒り、苦しさ、やるせなさ、切なさ、この世界にあふれるあらゆる感情が服となって現れるたびに、彼は虚無になっていったのではないかとすら思わせるほどに感情をまとった服の数々である。
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