死生観の変化

これまで生きている間は、生きるしかないので、死ぬまでの時間を埋めていく「作業」だと思ってきました。
何をやるにしても、それは死ぬまでの暇つぶし。暇つぶしというと聞こえはもひとつかもしれないけど「何かする」ということ。何もしないよりは時間は早く過ぎるし、長い人生の時間に途方にくれてしまうよりは、良かった。
辛いことも悲しいことも全部生きている間の時間を埋めるための「出来事」で、吐きそうなくらいキツい事でも良くても悪くても必ず過ぎていく。
耐え難い事も「これも暇つぶし」だと思うと、私の時間を埋めてくれた出来事で人生の一部だと思えた。

心臓発作を起こした時、当たり前だけど、死ぬかと思った。それまでポックリいけることが最高だと思ってたけど、自分が終わることを恐れるよりも、とても単純に二度と味わいたくない苦しみだった。
死ぬとか生きてるとかじゃなくて、単純にその境目を越えるのは全然楽じゃない気がする。超えてないから分からないけど。
初めての出産は、記録的な難産で3日かかっても生まれず、打てる薬は全部打って、強制的に産ませようという作業だった。限界を超える痛みで何度も何度も意識を失った。後で、病院側に伝達ミスがあって、本来は、もっと早く帝王切開に切り替えなきゃいけない状態だったらしい。
手術室に向かうストレッチャーの上で医師と看護師が揉めてるのが遠くから聞こえた。
結局、子供の頭より出口が狭くて、絶対出ないサイズだったようで、3日日間は出るはずのないものをありとあらゆる薬を使って出そうとした。
物理的に出られないものを薬使って出そうとしても決して出ない。
お腹の中で頭をずっと狭い出口に押し付けられた娘は、この世に出る前に本当に苦しい思いをしたに違いない。
親子には、生まれるのに死ぬような思いをした途方もなく長く感じる3日だった。
でも、不思議なもので出産の痛みというのは忘れる。次が怖いからもういやだとかトラウマになったりはしない。
死ぬかもしれない時の苦しみは、もう二度と味わいたくない。

死んだ後のことは明確でないので分からないけど、残された人たちの時間であることは認識していて、
残された人たちに、優しい時間が過ぎてくれるようにと願うけれど、多分、それは私の時間ではない。死んでる方には実はあんまり関係ない。
死にかけてみて、死ぬまでの暇つぶしだと思っていたのが、生きるも死ぬもの区別にあまり意味はない気がしてきた。
知らない事は怖いと認識するのが人で、生まれてきたかりの人間初心者には、この世は怖いものだらけだ。怖いから知って恐れずを、ひとつずつ増やしていく。恋も遊びも仕事も。この世界を知って、悲しんだり、苦しんだり、楽しくなったりを繰り返す。失恋なんて、幸せを強烈に感じるので、失った時は、その高低差に人生が終わったと思うくらいに、絶望したけど。それもやがて過ぎていく。
この世に出てきてからずっとその「出来事」の繰り返し。素敵な暇つぶしをいかようにするかと思ってきたんだけど。
今は、とにかく優しく時間が過ぎてほしい。
それまで死に向かって生きると言う感覚が強くあって、「生きる」事とても一所懸命に取り組んだけど、今は、一所懸命でもなくて、今目の前の瞬間が私に優しく過ぎてほしいと思っている。
「私」にだ。
どれほど自分を大切にせずいたぶってきたか。と思う。他人との関わりで、翻弄され、理解しようとしたり、理解されようとしたり。
眠れない夜に目を閉じて幸せな事を考えると寝つきが良くなるので、幸せを感じた時間を振り返ろうとしても、何も浮かんでこない。覚えてるのは苦しい事ばかり。私に幸せな時間はなかったわけではなく、幸せだった時間を幸せで完結できていないので、苦しい思い出が必ずひっついて思い出されてしまう。
思い出した時に幸せにさな気持ちになれる形で終わらせないと、貯まっていく幸せのストックのようなもので、このストックが少ないのは自分の生き方がそうだった事を思い知らされる。
「終わりよければ全てよし」とはよく言ったものだ。何でも笑って終わりにしておけば良かった。
死ぬまでにどう生きるかなんて、もうそんな事はどうでも良くなって、意味のない日でも、思い出す時に、幸せ成分が脳内から出てくるような今日を過ごして、記憶に優しい過去がストックしたい。
毛布にくるまった時のあたたかさや、すごくお腹を空いてる時のご飯の炊ける香りだったり、楽しそうに笑う家族の顔、オヤツをもらえるときの愛犬の高速な尻尾。
いつか死ぬ日は大した事ではない。その先は、残された人たちの時間で、私の時間ではないから、私が考えても仕方ない。後は残された人にお願いすること。そんないつ来るかわからない日のこと考えて走らなくても、今日、ここに腰掛けてポカポカしてたい。

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